平成10年(1998)に、新人物往来社から出版された
花ケ前盛明の『上杉謙信と春日山城』(10版・1800円
+税)である。
御存じ春日山城と言えば、越後の龍こと上杉謙信の居城と
して有名だ。この地は、長尾氏(上杉謙信の前の苗字)四代
の居城で、別名を蜂ヶ峰城ともいう。謙信は享禄3年(15
30)1月21日、越後守護代の長尾為景の子として、この
春日山城に生まれた。幼名は虎千代といった。
戦上手の謙信は、〝越後の龍〟と称され〝甲斐の虎〟と恐
れられた武田信玄と川中島において、五度にわたって雌雄を
決する戦いをしたのはあまりにも有名である。それ以外にも
北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、
佐野昌綱、小田氏治、神保長職、椎名康胤らの武将とも合戦
を繰り広げた。いずれの戦いも、この春日山城から出陣して
いる。
春日山城は、現在の新潟県上越市に築城された、天然の地
の利を活かした中世の山城である。標高189メートルの春
日山(蜂ヶ峰)にある連郭式の城郭で難攻不落の城との定評
が高かった。中世の五大山城の一つにも数えられている。春
日山の名は、山麓に奈良の春日大社から勧請された春日神社
があったことによる。この城の正確な築城年代は明らかでは
ない。おそらく南北朝時代に越後の守護・上杉氏が同国府中
の詰め城として築城されたと思われる。
永正4年(1507)、守護代の長尾為景が、上杉定実を
擁立して守護の上杉房能を追放した。定実が新守護として府
中に入ると為景が春日山城主となる。その後、長尾晴景を経
て、天文17年(1548)に、長尾景虎(のちの謙信)が
城主となった。為景は本格的な築城に着手し、景虎(謙信)
が現在残る大規模な城郭として完成させた。
天正7年(1579)には、御館の乱を制した上杉景勝が
城主となり、慶長3年(1598)には、景勝が会津へ転封
となったことから堀秀治が入城した。江戸時代に入り、越後
福嶋藩の初代藩主となった。関ヶ原の合戦から7年後の慶長
12年(1607)、秀治の後継となった子の堀忠俊が直江
津に福島城を築城した。これを居城とし藩庁を同城に移した
ことにともない、春日山城は事実上の廃城となった・・・。
現在、城跡には曲輪、土塁、空堀、大井戸、現存されてい
る門などの遺構が残っている。また、山麓の林泉寺の惣門は、
春日山城の搦手門を移築したものだ。城郭跡から想像できる
同城の威風堂々たる佇まいは、偉大な戦国武将・上杉謙信そ
のものである。近年の発掘調査により、その後の文化事業と
して土塁や監物堀、道や番所など多くが復元され観光地とな
っている。ちなみに「春日山城跡ものがたり館」が併設され、
春日山城の全貌紹介のビデオ上映のほか、川中島合戦図屏風
や発掘調査の出土品などが展示されている。
「城は人なり」。城には、築城した武将の〝生き方〟や〝哲
学〟が圧縮されている。作家の南条範夫は「信長以前の武将
は信仰心が篤く、信長を筆頭にそれ以後の武将は神仏に頼ら
ぬ合理主義者が多い」と定義した。謙信は武神毘沙門天の強
盛な信者で、本陣の旗印にも「毘」の文字を使った。 ライ
バルの信玄は、諏訪大明神や恵林寺、善光寺などに「この合
戦を勝利させてくれた暁には、これだけの金品を寄進致しま
す」と祈願していたのに対して、謙信の信心は実に潔く道理
に徹していた。
謙信は、信玄に信濃侵略された小笠原長時や村上義清らを
はじめ、上野の箕輪城主・長野業正らの窮地を見捨てておく
ことができなかった。大義・信義・正義の矜持から出陣救援
に動いた。謙信のフィロソフィーは「依怙によって弓矢は取
らぬ。ただ筋目をもって何方へも合力す」(『白河風土記』)
に尽きる。また、謙信は、信玄の領土に駿河・遠江・三河か
ら来ていた今川経由の塩を断たれた時に、越後などの日本海
の塩を送った逸話はあまりに有名である。「敵に塩を送る」
という故事も生まれた。謙信、決して私利私欲で合戦はしな
い。毀誉褒貶は人の世の常で、名聞名利に左右されている愚
かな支配者には手を貸さない。あくまでも道理をもって判断
で、大義のためにいかなる者にも力を貸した。謙信もその牙
城の春日山城も、ともに神仏への殉教の証であった。
本の状態は、全体的には、ほぼ美本の古書「上」だが、前
の持ち主がカバーと本体をテープで貼った跡があるので神経
質な方は御遠慮して下さい。発送はゆうパケット210円
です。