戦後の漫才史を飾る、リーガル天才・秀才の昭和59年の
年賀状である。奇しくもコンビ結成30周年意義ある年の賀
状だ。その功績は大きく、のちに漫才師としては、異例の第
43回文化庁芸術祭賞(1988)や紫綬褒章(1991)など多数の
賞や章に輝いている。家元・立川談志もその芸を高く評価し
ていた。このデザインの賀状は何枚があるが、この年は薄い
ピンク色の下地が愛らしい!
【リーガル天才・秀才の小史】
戦後昭和26年コンビ結成し、その後の昭和全般に活躍し
た、人気漫才コンビのリーガル天才・秀才の年賀状である。
高峰(玉川)一門である。結成当時は、『曽我天才・坂東秀
才』名だったが、その後、芸の目標と仰いでいたリーガル千
太・万吉から『リーガル』の屋号を許された。
彼らが全盛となった昭和30年代・40年代は、お茶の間
の主役がラジオからテレビへの移行期であった。それだけに
テレビCMの関係で、寄席中継や演芸バラエティなどの番組
進行に遅れを来した時に、リーガル天才・秀才は時間調整を
絶妙にこなし関係者から絶賛された。
芸風はひょうきんで、ちょいと、とぼけた掛け合いと反骨
精神あふれる鋭い社会批評でのメリハリが冴えていた。ため
に昭和45年、大坂万博があった年、放送業界の芸人軽視の
風潮を不満として、テレビ・ラジオ出演拒否を宣言し、頑固
なまでに寄席活動に専念した。同じ頃、落語家の柳家つばめ
が佐藤栄作総理を高座でおちょくり、放送業界から干された
のは、多くの落語家や漫才師に衝撃を与えた。
天才・秀才は、寄席は「トータルの配慮が必要」と力説し
ている。つまり「自分たちの芸を、好き勝手にやればよいと
いうものではなく、前に上がった漫才師の流れを活かしメリ
ハリをつける。また後から上がる落語家さんがより話しやす
くする〝気配り〟や〝配慮〟が必要」と説明している。要す
るに「寄席そのものが、芸人たちの運命共同体の自覚が大切」
と熱ぽく語っていた。
【天才・秀才の弟子】
●春日三球・照代
●ケーシー高峰 - 『医事漫談』の創始者にして第一人者。1960年代半ばに
●高峰青天・幸天
●高峰東天・愛天
●リーガル和才・洋才(高峰和才・洋才)
【状態と発送】
今から38年前のものだが、保存がよく「美品」だ!
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