
ジャズの専門誌に『スイング・ジャーナル(Swing Journal)』という雑誌があります。たいてい図書館に置いてあるので、自分では余り買いませんが、かれこれ30年近くも読んでいます。が、読んでいて一番気になるのは、いつ見ても必ず「ビッチェス・ブリュー」と書いてあったりすることです。学習塾とか予備校とかで長いこと英語を教えたりしていたので、そういうことが気になるのです。
確かに、マイルスの名盤と言われるもののひとつに「Bitches Brew」というレコードがあります。なぜ「ビッチズ・ブルー」と表記しないのでしょうか。このレコードが最初に出た1970年頃に、植草甚一氏は確かそう表記していました。「マイルス」は強いて「マイルズ」にしなくてもいいと思いますが(「ズ」と表記すると、ここにアクセントを置いて読んでしまうので良くない―というようなことを油井正一氏が書いていた記憶があります)、これは明らかな間違いです。「間違っていたら、改めるのに躊躇するな」と孔子も言っています。今すぐ直しましょう。
では、訳すとどういう意味なのか?――多分、訳せません。「Bitch」というのは、マイルスの口癖のような言葉の一つで、普通は「雌犬=あばずれ女」みたいな悪口なのですが、マイルスは「すっげえ奴」みたいに親しみを込めた意味でよく使います。これを「Witches' Brew(魔女の秘薬→麻薬)」に掛けた言葉だと思います。「飲んでみな、ぶっ飛ぶぜ」みたいな意味ではないでしょうか。(Bitches blew 「吹く、ブロウする」にも掛かっている可能性もあります。最初はそういう意味だと思っていましたが、Brew と Blew では違いすぎるでしょう。レコードのジャケットの絵も、麻薬っぽいイメージです。)
この二枚組みのレコードが初めて出たとき、ジャズ評論家の油井正一氏は「歴史を変える傑作」という評価を下しました。同じく評論家の粟村政昭氏も「Bitches Brew で、モダン・ジャズの歴史は終わった」と言っています。その意味を説明するためには、前提になっている「ジャズの歴史」を説明しなければなりませんから、今は省略させてもらいたいような気分です。でも、言わんとすることは、リズムの革新ということです。(電気楽器の導入という点も話題でしたが、それは本質的にはどうでもいいことです。)
当時はロックのリズムだと誤解されたこともありましたが、当時のマイルスが目指していたのは、複合的なリズムの創造だったようです。
私が最初に聴いたマイルスのレコードは、74年の日本でのライブ「アガルタの凱歌」と「パンゲアの刻印」でした。何かよく分からんけど、凄い、と思ったものです。ここでは、もうロックの機械的な8ビートとはかけ離れたリズムになっています。発売五年後の当時の耳で聴いても、「Bitches Brew」は、ロックっぽい煩いリズムに聞こえたのです。でも、三十年後の今聴くと、大人しいリズムの端正な演奏に聞こえます。(昔は「騒音」と言われたような暴力的なフリージャズでも、今聴くと大人しい演奏に聞こえることも多いのだから、当たり前かもしれませんが。)
ともかく、「ビッチズ・ブルー」を境に、マイルスは伝統的なジャズのスタイルを超えた「マイルスの音楽」の途を進んで行くことになるわけです。(その後は、「アガルタ」「パンゲア」辺りを例外にして、あまりちゃんと聞いていないので、書きません。マイルスの、もう一枚の歴史的名盤と言われる「Birth of the Cool」も同じです。)