昭和43年(1968)に、河出書房新社から復刻出版された林不忘の戦前名著『丹下左膳/魔
像』(初版・定価590円)である。本篇の巻末には、「年譜」「解説」(多田道太郎)も所収されてい
る。志村立美の挿絵も見事である。「探偵文芸」(長谷川四郎)や用語解説(綿谷雪)が所収され
ている、稀少な『月報』も付いている。
著者の生き方と作品の方向性が符号するので、少々、御説明しておきたい。先ず〝不忘〟
とは、戦前の教育、漢文読みすると「忘れず」と読む。物書きを目指しす者にとって、読者に
著者の名前を覚えてもらうことは、ある種の祈りと言ってよい。その願いのとおり、この林不忘
(はやし・ふぼう)の名で発表した『丹下左膳』が一世風靡し、数々の映画化もされた。まさに
名は体を表し、国民の心に深く刻み込まれた大衆作家の〝王者!〟となった。
今日では「林不忘」のペンネームが著名だが、当時は、牧逸馬(まき・いつま)、谷譲次
(たに・じょうじ) の3つの名を使い分けた。本名は、長谷川海太郎(はせがわ・かいたろう)と
いい、明治33年(1900)新潟県生まれ。父は七つの海に通じ世界に開ける海を愛し、この
名をつけた。海太郎少年もまた、太郎という名前は五万といるが、その上に〝海〟がついた
その名に誇りと海外雄飛の夢見ていた。クラーク博士の「ポーイズ・ビー・アンビシャス(少年
よ大志を抱け!)」に触発されて、大正7年(1918)に函館中学中退後、18歳で渡米を決行
した。オベリン大学やオハイオノーザン大学に籍を置き、働きながら学んだ。日本に比べて、
米国の図書館の質量の凄さに圧倒され、幅広く読書に挑戦した。日本移民の功績が道路名
となった、テキサスの〝コバヤシ・ストリート〟に感動した。
大正13年(1924)に6年の留学から帰国した。ちなみに、その前年、東京府周辺の街並
みは、関東大震災で灰塵と帰していた。復興は始まっていたが、市民が蔵書していた書物も
ほとんどが焼けて、大衆は活字に飢えていた。海太郎は、帰国後、米国体験記 『めりけん
じゃっぷ(米国の日本人)』を谷譲次の名で発表した。この苗字は、谷間の「River」から、
おのれが日本と米国のはざまにいる立ち位置を連想し、見聞を深めさせて頂いた、かの地
に敬意を表し命名した。下の名は、一般的にもアメリカ人にも多い「ジョージ」を拝借したもの
だ。自らの体験談「テキサス無宿」もこの『めりけんじゃっぷ』の中に所収されている。そうそう、
言い忘れたが、林不忘れにチャンスを与えたのは、探偵小説雑誌『新青年』の森下雨村編集
長で、彼は江戸川乱歩や横溝正史らく多くの逸材を世に送り出している。
さて、渡米中、海太郎青年、アメリカン・エンターティーメントにもふれている。岡本綺堂は、
シャーロック・ポームズを素材に『半七捕物帳』を書いたのはあまりに有名である。林不忘は、
米国で西洋の推理小説にも造形を深めた。帰国後。松本泰主宰の「探偵文芸」に加わり、牧
逸馬の名で、多数の探偵推理小説や、主婦の人気を集めた『地上の星座』のような各種の
ホームドラマ、翻訳本などを手がけた。そして、万を持した『丹下左膳』シリーズは、林不忘の
名で執筆した。三つのペンネームを並行して使い分け、小説を量産したことから、彼は〝文壇
のモンスター〟の異名を持ったが、働き過ぎの生き急ぎからか。昭和10年(1935)に36歳の
若さで他界した。
【丹下左膳】
御存じ、丹下左膳は、隻眼で片腕の謎の剣士である。愛刀〝濡れ燕〟をひっさげ、凄ま
じい剣技で悪人をなぎ倒すヒーローである。物語は昭和2年、東京日日新聞(現・毎日)に
連載された『 新版大岡政談・鈴川源十郎の巻』の登場人物の一人に過ぎなかった。
しかし、ニヒルな左膳が大人気となり、映画もされ大ヒット。シリーズ化された主人公は、
著者が若き日にテキサスで邂逅した西部劇の影響があった・・・・。林不忘は、脇役にした
小説を、丹下左膳を主役に書き換えて絶筆まで書き続けた。彼の逝去後は、大河内伝次郎
主演の日活版をはじめ、マキノ版の嵐長三郎(嵐寛寿郎)、阪東妻三郎、 水島道太郎、大友
柳太朗、丹波哲郎、中村錦之助など多くの名役者が演じた。物語に関しては、本書読んで
御堪能して下さい。
【魔像】
本書は、美貌の若侍の復讐劇の時代小説である。時は徳川八代将軍吉宗のみぎりだ。
新参のお帳番・神尾喬之助は、江戸小町といわれる園絵と華やかな婚礼の儀をあげた。
だが、園絵に失恋した組与頭・戸部の怨みは深く、権力の笠を着て喬之助をいじめ抜いた。
また同僚17名の書院番士も、番頭・脇坂を叔父にへつらい、喬之助をいたぶった。
ある年の元旦、遂に喬之助の堪忍袋の緒は切れた。怒りは爆発し、物語は書き出しから、
小気味よいテンポでこう始まる。
「 卑怯! 卑怯ッ! 卑怯者ッ!」
大声がした。千代田の 殿中である。 新御番詰所と言って、 書役の控えている大広間だ。
荒磯の描いてある 衝立の前で、いまこう、肩肘を張って叫び揚げた 武士がある。
紋服に、下り藤の紋の付いた 麻裃を着て、さッと血の気の引いた顔にくぼんだ眼を 据え、
口唇を蒼くしている 戸部近江之介である。西丸御所院番頭脇坂山城守付の組与頭を勤め
ている。激怒にふるえる手で、袴の膝を掴みぐっと斜めに上半身を突き出した・・・。
戸部は、怨敵の首を斬り、城から姿を消し出奔したのだった。心根のよい喬之助を、渡る
世間の人情は見捨てない。縁は異なもの味なもの、偶然知り合った喧嘩屋浪人・茨右近は、
なんと人相風体が喬之助と瓜二つで協力者となる。本懐を遂げるまで、波瀾万丈の始末は
本書を御覧あれ!
本の状態は、古書「並上」だが、函は全体的にはキレイだが、経年のヤケや小汚れがある。
本体の小口・天地に小シミなどがみられる。本体は、函にカバーされていたので、50年前の
本としては良好な部類である。あまりに神経質の方は御遠慮して下さい。発送は、分厚い本
なので、レターパックプラス520円です。