こちらは今回のターンで売り切ります〜〜
ご入札をご検討いただき、誠にありがとうございます。
これは単なる宝飾品ではございません。一つの物語であり、哲学であり、これから人生の荒波に漕ぎ出す、すべての勇敢なる魂に捧げる護符（アミュレット）でございます。
長文となりますが、このペンダントが宿す本当の価値をご理解いただくため、しばし私の拙い筆にお付き合いいただければ幸いです。
光芒万丈の至宝 ダイヤモンド0.32ct Pt900ペンダント 唯一無二、金剛不壊の輝きを胸に
序章：梅雨空の不協和音
鎌倉の谷戸（やと）の奥深く、紫陽花が雨に濡れて重たげに頭を垂れる季節。その空気を切り裂くように、若い男の苛立った声が響いた。
「先生！もう無理です！由美子とは別れます！」
声の主は、陶芸家・倉田玄斎（くらたげんさい）の唯一の弟子である宮下健太（みやしたけんた）、二十八歳。日頃は温厚で、土を練る手つきのように実直な青年が、今は憤怒と絶望に顔を歪ませている。
その訴えを受けた倉田玄斎は、七十を過ぎたとは思えぬ矍鑠（かくしゃく）とした姿で、ろくろの前に座っていた。彫りの深い顔に刻まれた皺は、長年の苦労と偏屈さの年輪そのもの。彼はろくろの上で回転する灰色の塊から目を離さずに、鼻でフンと笑った。
「阿呆か、健太。別れるだと？お前が一人前の口を利くのは、俺の作る飯を美味いと言えるようになってからだ。女の一人も御せんで、何が陶芸家だ」
「そういうことじゃありません！価値観が、根本的に合わないんです！俺がAと言えば彼女はBと言う。俺が静かに過ごしたいと思えば、彼女は街へ繰り出して騒ぎたいと言う。俺がこの谷戸の静けさを愛していると言えば、彼女は退屈で息が詰まると言う。もう疲れました……」
健太の言葉は、まるで決壊した堰から溢れ出す濁流のようだった。
「ほう。それで？」
玄斎はこともなげに言うと、濡れた指先で粘土の塊の中心を押し、ゆっくりと穴を開けていく。その指先の動きには一切の迷いがない。
「それで、だと？相性が悪い、ということです。これ以上一緒にいても、お互いが不幸になるだけです」
「相性、ねえ……」
玄斎は独り言のように呟き、ろくろの回転を少し速めた。粘土の壁が、彼の両手に包まれながら、意思を持っているかのようにすっくと立ち上がっていく。
「世の凡俗どもは皆、勘違いしておる。結婚相手、生涯を共にする伴侶というものをな。やれ『相性の良い人』だの、『価値観が同じ人』だの、『一緒にいて楽な人』だの、虫の良いことばかりを並べ立てる。笑わせるわ」
玄斎の口調は、いつもの毒を含んだ説教の始まりを告げていた。健太はうんざりした顔をしながらも、師の言葉を遮ることはできない。
「いいか、健太。よく覚えておけ。人間が生まれてきた意味は、楽をするためでも、心地よく生きるためでもない。修行だ。この世は、己の魂を磨くための道場に過ぎん。そして、その修行において、最も効果的な砥石（といし）となるのが、配偶者よ」
「砥石……ですか？」
「そうだ。考えてみろ。お前と同じ価値観で、お前の言うことにいちいち頷き、お前の望むことだけをしてくれる人間が隣にいて、何の学びがある？何の成長がある？それはただの居心地の良い沼だ。魂が澱み、腐っていくだけよ。だからな、道理というものは、実によく出来ておる。人間は、本能的に自分にとって最高の砥石、すなわち、自分と最も相性の悪い相手を選ぶように出来ておるのだ」
玄斎の言葉に、健太は呆気に取られた。
「一番、相性の悪い相手……？そんな、馬鹿な……」
「馬鹿なものか。お前がその由美子とかいう小娘に惹かれたのはなぜだ？お前にないものを持っていたからだろうが。お前の静けさとは真逆の喧騒を、お前の内向性とは真逆の社交性を、心のどこかで求めていたからではないのか？違うか？」
図星を突かれ、健太は言葉に詰まった。確かに、由美子の太陽のような明るさ、物怖じしない行動力は、内気な自分にとって眩しく、魅力的に映ったのだ。
「だが、それが今では苦痛で……」
「当たり前だ。砥石で刃物を研げば、火花が散る。ギャアギャアと耳障りな音もする。痛みに決まっておるわ。だが、その摩擦と苦痛を経てこそ、鈍（なまく）らは鋭利な刃物になる。人間も同じことよ。相性の悪い相手と四六時中暮らし、価値観の違いにぶつかり、喧嘩を繰り返し、その度に己の至らなさ、偏狭さ、傲慢さを思い知らされる。その苦しみこそが、お前の魂を削り、磨き、輝かせる唯一無二の修行なのだ。それを『相性が悪いから別れる』だと？お前は、最高の道場から逃げ出す、ただの臆病者だ」
玄斎はそう言い放つと、ろくろを止めた。目の前には、完璧な均衡を保った大ぶりの徳利が、静かな存在感を放っていた。
「……分かりません。俺には、先生の仰ることがさっぱり分かりません」
健太は力なく首を振った。
玄斎は徳利をそっと糸で切り離すと、ゆっくりと立ち上がった。
「分かる必要などない。これから、体で分からせてやる。まずは、この土の教えからだ」
玄斎の目は、いつになく真剣な光を宿していた。それは、健太の恋愛相談を、一人の人間の、そして一人の陶芸家の根幹に関わる問題として捉えている証だった。梅雨の湿った空気が、これから始まる長く、そして滋味深い説法の始まりを、静かに包み込んでいた。
第一章：土の教え、不調和の調和
「健太、土を練れ。菊練りを百回だ」
玄斎の工房には、様々な種類の土が、まるで生き物のように息づいて保管されている。信楽の赤、伊賀の白、備前の黒、唐津の砂気。それぞれが異なる性質、異なる生まれ故郷を持つ。
玄斎は、健太に二種類の土を指し示した。一つは、きめが細かく、粘り気の強い瀬戸の木節（きぶし）粘土。もう一つは、ざらりとして荒々しく、耐火度の高い信楽の蛙目（がえろめ）粘土。性質は正反対だ。
「先生、この二つを合わせるのですか？これでは……」
「ごちゃごちゃ言うな。俺がやれと言ったらやるんだ」
健太は不承不承、二つの土塊を練り台の上で合わせ始めた。予想通り、作業は困難を極めた。しっとりと手に馴染む木節粘土と、ゴツゴツと反抗する蛙目粘土。均一に混ざり合おうとしない。まるで、自分と由美子のようだ、と健太は思った。
「どうだ、健太。言うことを聞かぬだろう、この土は」
背後から、玄斎の声がする。
「はい。まるで水と油です。それぞれの良さを殺し合っているようにしか思えません」
「ふん。それが素人の浅はかな考えよ」
玄斎は健太の隣に立つと、自らも土を手に取った。
「いいか。この木節の粘りは、器の形を作る『骨格』となる。だが、これだけでは焼き締まりが強すぎて、火の中で歪み、割れてしまう。一方、この蛙目の荒さは、粘土の中に無数の隙間を作り、火の通りを良くし、器の『呼吸』を助ける。これだけでは脆すぎて形にならんがな。つまりだ、この二つは、互いの欠点を補い合い、互いの長所を最大限に引き出すために出会ったのだ。お前が言う『水と油』は、最高の夫婦なのだよ」
玄斎の手の中で、反発しあっていた二つの土は、力強く、しかし愛情を込めて練り上げられるうちに、徐々に一つの塊へと姿を変えていく。その様は、まるで激しい口論の末に和解した男女のようにも見えた。
「菊練りというものはな、ただ土の空気を抜く作業ではない。土の中にある、異なる意志を対話させ、調和させるための儀式だ。右手で押し、左手で回す。陰と陽。男と女。異なる力が作用し合い、一つの美しい菊の紋様を描き出す。そこには、反発もあれば、受容もある。一方的な力だけでは、紋様は生まれん」
玄斎の手元に、見事な菊の花が咲いた。
「お前と由美子という娘も、この土と同じだ。お前は木節粘土だ。粘り強く、形を作り出す力はあるが、内に籠もりやすく、変化を恐れる。由美子は蛙目粘土だ。開放的で、外からの刺激を恐れんが、それだけでは形を成さず、ばらばらになってしまう。お前たちは、互いにとって最高の素材なのだ。それを『相性が悪い』の一言で片付けるとは、素材の心を解さぬ、三流の陶芸家と同じことだ」
健太は、自分の手の中にある、まだ不格好な土塊を見つめた。玄斎の言葉が、じわりと心に染みてくる。由美子の奔放さに振り回され、自分のペースが乱されることばかりを考えていた。だが、彼女の存在が、自分の凝り固まった日常に風穴を開け、新しい世界を見せてくれたことも事実だった。彼女と出会わなければ、自分は今も、この谷戸の片隅で、同じような代わり映えのしない器を、ただ漫然と作り続けていただけかもしれない。
「だが……それでも、喧嘩ばかりなのは……」
「喧嘩こそが対話だろうが。言いたいことも言わず、腹の底に溜め込んで、表面だけを取り繕う関係が、健全なものか。喧嘩ができるうちは、まだ互いに関心がある証拠だ。本当に終わった関係というのはな、喧嘩すら起きん。無関心という、静かな地獄が広がるだけよ」
玄斎は練り上げた土をろくろに乗せ、再び回転させた。
「陶芸とは、不調和との対話だ。土と、水と、手と、心。すべてが完全に調和することなどない。そのズレをどう受け入れ、どう活かすか。そこにこそ、作り手の個性と、器の景色が生まれる。お前たちの関係も同じこと。その『不調和』こそが、お前たち二人だけの、唯一無二の景色を作るのだ。その景色を見る努力もせず、逃げ出すのか、この腰抜けが」
挑発的な言葉とは裏腹に、玄斎の横顔はどこか優しかった。彼は、ろくろの上で滑らかに立ち上がる器に、まるで愛しい我が子に語りかけるように、そっと呟いた。
「美しさは、完璧な調和の中にだけあるのではない。むしろ、危うい均衡の上で、互いに反発し合いながらも、懸命に支え合う不調和の姿にこそ、真の美は宿るのだ」
その言葉は、健太の胸の奥深くに、小さな、しかし確かな楔を打ち込んだ。
第二章：火の試練、煉獄の先の景色
数日が過ぎ、工房の奥にある登り窯に火が入る日が来た。梅雨の晴れ間、空は高く澄み渡っている。窯焚きは、陶芸家にとって最大の試練であり、祭りでもある。三日三晩、火を絶やすことなく、温度を徐々に上げていく。
玄斎の工房の登り窯は、彼自身が設計し、弟子たちと共に築き上げた、古式ゆかしい穴窯だ。温度計などという野暮なものはない。炎の色、薪のはぜる音、窯から立ち上る煙の匂い。五感を総動員して、火の機嫌を読み解く。
「健太、火の番をしろ。今夜は眠れんぞ」
玄斎の命令は、いつも通り有無を言わさぬ響きを持っていた。
窯の中には、健太が苦心して練り上げた土で作ったぐい呑みも、玄斎の徳利と共に納められている。自分と由美子のメタファーである、あの反発しあう土から生まれた器が、これから煉獄の炎に身を投じるのだ。
夜が更け、谷戸は深い静寂に包まれた。聞こえるのは、虫の音と、窯の中でごうごうと燃え盛る炎の音だけだ。赤い薪を次々と窯口に放り込みながら、健太は言いようのない不安と、奇妙な高揚感を覚えていた。
「火というのは、正直なものよ」
いつの間にか隣に立っていた玄斎が、炎に照らされた顔で言った。
「こちらの僅かな油断や慢心を見抜き、容赦なく牙を剥く。土に僅かでも空気が残っていれば爆ぜさせ、歪みがあればさらに歪ませる。すべてを灰にする破壊神でありながら、同時に、ただの土塊に永遠の命を吹き込む、創造神でもある」
玄斎は火を見つめる。その瞳は、まるで旧知の友と語らうかのようだ。
「人間関係も、この窯の中と同じだと思え。長く連れ添うということはな、互いをこの煉獄の炎に晒し続けるようなものだ。相手の熱が、自分の欺瞞や虚飾を焼き尽くし、隠していた欠点や弱さを容赦なく暴き出す。痛いぞ。苦しいぞ。時には、すべてが灰になってしまうのではないかという恐怖に駆られる」
健太は、由美子との激しい口論を思い出していた。彼女のストレートな言葉は、いつも自分の心の最も痛い部分を抉ってきた。自分の見栄、怠惰、臆病さ。自分でも気づかぬふりをしていた醜い部分を、彼女は鏡のように映し出した。そのたびに、自分は傷つき、彼女を逆恨みした。
「だがな、健太。その炎から逃げずに耐え抜いた者だけが見られる景色がある」
玄斎は、窯の小さな覗き穴から中を覗き込んだ。
「見ろ。器が、赤く輝いておるだろう。あれは、土が生まれ変わろうとしている姿だ。苦しみの絶頂で、土は自らの分子構造を組み替え、ガラス質の膜を生成し始める。これが『焼成』だ。そして、窯の中を舞う薪の灰が、高温で溶けて器に降りかかり、予期せぬ模様を描き出す。これが『自然釉』の景色よ。作り手が意図したものを超えた、神の領域の美だ」
玄斎に促され、健太も覗き穴から中を覗いた。そこには、言葉を失う光景が広がっていた。真っ赤に焼けた器たちが、まるで銀河の星々のように輝き、その上を黄金色の灰がキラキラと舞っている。苦しみの中に、こんなにも荘厳な美が隠されていたとは。
「お前と由美子の喧嘩も、この降りかかる灰のようなものだ。一つ一つの諍いは、お互いを傷つけるだけの無意味なものに見えるかもしれん。だが、その無数の火花が、長い時間をかけてお前たちという器の上に降り積もり、やがては誰にも真似のできない、二人だけの美しい景色となる。他の誰から見れば、ただの傷や染みに見えるかもしれん。だが、当人たちにとっては、それこそが愛の軌跡であり、共に試練を乗り越えてきた証となるのだ」
「……先生は、奥様と……」
健太は、ずっと気になっていたことを口にした。玄斎の妻、千代は十年前に亡くなっている。生前の彼女を健太は知らない。
玄斎は、ふっと遠い目をした。炎の光が、その深い皺を揺らした。
「千代か……。ああ、あの女ほど、俺と相性の悪い人間はいなかった」
その口調は、驚くほど穏やかだった。
「俺が東を向けば西を向き、俺が山と言えば海と言う。俺が芸術のために貧乏も厭わんと言えば、あの女は明日の米の心配をしろと喚き立てた。俺が作った器を床の間に飾って悦に入っていれば、『こんなガラクタ、漬物石にでもしたらどうです』と平気で言う。毎日が戦だった。この窯の炎よりも、もっと激しい戦だったかもしれん」
玄斎は、少し笑った。
「だがな。あの女がいたからこそ、俺は地に足をつけていられた。芸術という名の雲の上をふわふわと漂う俺を、生活という名の強い錨で、現実の海に繋ぎ止めてくれたのが、あの女だ。あの女の現実感覚がなければ、俺の陶芸は、ただの自己満足のオナニーで終わっていただろう。俺の器に宿る力強さは、あの女との戦いの中で、嫌というほど思い知らされた『生活の重み』そのものなのだ」
「……」
「そして、あの女もまた、俺という名の煉獄で焼かれていたのだろう。俺の身勝手さ、芸術家のエゴ、世間知らず。それに耐え、時に戦い、時に呆れながら、それでもあの女は、俺の作るものを誰よりも深く理解しようとしてくれた。俺の器で飯を食い、酒を飲み、『今日の料理には、この器は合いませんね』などと、的確な批評をしやがる。最高の砥石であり、最高の客であり、最高の批評家だった」
玄斎は薪を一本、ゆっくりと窯に投げ入れた。パチパチと火の粉が舞い上がる。
「相性が悪いということはな、健太。互いが互いにとって、最高の教師であり、最高の試練であるということだ。その試練から逃げ出した者に、本物の景色は見えん。陶芸も、人生もな」
三日三晩の窯焚きが終わり、窯がゆっくりと冷やされるのを待つ数日間、健太は玄斎の言葉を何度も反芻していた。由美子との関係は、本当にただの不毛な争いなのだろうか。それとも、これは自分たちという器を焼き上げるための、避けられない火の試練なのだろうか。
答えはまだ、見つからなかった。
第三章：味の道行き、出会いものの妙
窯出しの日、健太のぐい呑みは、奇跡のような姿で現れた。
反発しあっていた二つの土は、炎の中で見事に一つに溶け合い、力強い素地を形成していた。そして、その表面には、健太が意図しなかった深緑色の自然釉が、まるで渓流の流れのようにかかっていた。それは、不格好な傷ではなく、荒々しくも美しい、唯一無二の景色だった。
「ほう。悪くない」
玄斎は、そのぐい呑みを手に取り、様々な角度から眺めると、珍しく褒め言葉を口にした。
「お前の未熟さと、土の力が、正直に出た器だ。気に入った。今夜はこれで一杯やるぞ」
その夜、玄斎は健太を連れて、馴染みの料亭へと向かった。暖簾をくぐると、凛とした空気の中に、出汁の香りがふわりと漂う。
「先生、お待ちしておりました」
上品な白髪を結い上げた女将が、深々と頭を下げた。
個室に通され、まずは先付が運ばれてくる。青竹を割った器に盛られているのは、鱧（はも）の落としと、じゅんさいの酢の物。梅肉の赤が鮮やかだ。
「美味いか、健太」
「はい。鱧の淡白な味と、梅肉の酸味が……」
「阿呆。そんなことしか言えんのか」
玄斎は、健太が持参した窯出ししたてのぐい呑みに、女将に注がせた冷酒をくいっと煽った。
「いいか。料理というものも、男女の仲と同じよ。重要なのは『出会いもの』だ」
「出会いもの？」
「そうだ。春ならば筍と若布。夏ならばこの鱧と松茸、あるいは賀茂茄子と油。秋は……言うまでもないな。冬は蕪と鰤。それぞれ、全く異なる生まれ、異なる味、異なる食感を持つ食材だ。単体でも美味いが、それらが出会うことで、互いの持ち味を何倍にも高め合い、一つの皿の上で、至高の調和を生み出す。これを『出会いもの』の妙という」
玄斎は、鱧を一切れ口に運んだ。
「この鱧。骨切りという、無数の刃を入れる苦行を経て、初めてふわりとした食感が生まれる。一方、このじゅんさいは、清らかな沼の底で、ぬるりとした膜に守られて育つ。一方は痛みを乗り越え、一方は静寂に守られる。まるで違う世界に生きてきた二つが、この酢の物という一つの宇宙で出会い、互いを引き立て合っている。これが、ただの『相性の良い』食材を合わせただけでは生まれぬ、深い味わいというものだ」
健太は、改めて目の前の料理を見つめた。骨切りされた鱧。ぬめりのあるじゅんさい。確かに、それらは正反対の個性を持っている。だが、口に含むと、その違いが見事なハーモニーを奏でている。
「お前と由美子という娘も、この鱧とじゅんさいのようなものだ。お前は骨切りされる前の鱧だ。頑固で、小骨が多い。由美子は、沼から出たばかりのじゅんさいかもしれん。つるりとして掴みどころがない。だがな、お前たちがぶつかり合い、互いに影響を与え合うことで、いつかはお前たちだけの『出会いもの』の味が生み出されるかもしれんのだ。その可能性を、お前は捨てようとしている」
次に運ばれてきたのは、鮎の塩焼きだった。川の苔を食べて育った鮎は、独特の苦味と香りを持つ。これこそが、夏の味覚の王様だ。
「このわたの苦味がいい……」
健太が呟くと、玄斎はすかさず言った。
「そうだ。苦味だ。人生も料理も、甘いだけでは深みが出ん。苦味、酸味、渋み、時にはえぐみ。そういった、一見すると不快な味が混じり合ってこそ、複雑で、忘れがたい味わいが生まれる。お前たちの関係にある『苦味』は、お前たちの人生を、より味わい深いものにするための、最高のスパイスなのだ。それを、ただ『不味い』と言って吐き出すのか？」
玄斎の言葉は、まるで鋭い錐（きり）のように、健太の心の固い部分に穴を開けていく。
最後に、土鍋で炊かれた新生姜の炊き込みご飯と、赤出汁が運ばれてきた。
「味噌と、醤油と、酒。これらは、元を正せばただの大豆や米だ。それが、麹菌という、目に見えぬ微生物と出会い、時間をかけて発酵し、熟成することで、元の素材からは想像もつかぬ、芳醇な香りと旨味を持つ調味料に生まれ変わる」
玄斎は、赤出汁の椀を両手で包み込むように持ち、その香りを深く吸い込んだ。
「人間関係も、この発酵・熟成と同じことよ。時には腐敗と紙一重の、危うい状態にもなる。それが『腐れ縁』というものだ。だが、その時間を耐え抜き、互いの存在がじっくりと染み渡った関係は、一朝一夕には作れぬ、深いコクと旨味を宿す。若者の恋愛のように、すぐに沸騰し、すぐに冷めてしまうような、インスタントな関係とは訳が違う。お前は、これから由美子と、じっくりと熟成させていくべき『仕込み』の段階にいるのだ。一番面白い時じゃないか」
料理の一皿一皿が、玄斎の哲学を雄弁に物語っていた。相性の悪さ、苦味、そして時間。それらが織りなす、深く、複雑で、そして何よりも滋味深い世界。健太は、自分がいかに物事の表面しか見ていなかったかを、痛感させられていた。
「女将、勘定を」
料亭を出ると、夜空には細い月がかかっていた。
「先生、ごちそうさまでした。ですが……」
健太は、まだ迷いを振り払えずにいた。
「頭では、少し分かったような気がします。でも、心が……心が、どうしても納得できないんです」
「だろうな」
玄斎は、夜道に響く自分の下駄の音を聞きながら言った。
「理屈で分かるようなら、人生は苦労せん。最後の仕上げが必要なようだな。ついてこい」
玄斎は、健太を連れて、工房へと戻っていった。その足取りには、これからクライマックスを迎えようとする物語の語り部のような、確信に満ちた力強さがあった。
第四章：光の契約、金剛不壊の輝き
工房に戻った玄斎は、多くを語らず、奥の私室へと健太を招き入れた。そこは、彼の亡き妻・千代の仏壇が置かれた、静謐な空間だった。
玄斎は仏壇に静かに手を合わせると、桐の小箱を大切そうに取り出してきた。そして、その蓋をゆっくりと開ける。
中には、ベルベットの布に包まれた、一つの小さなペンダントが鎮座していた。
それは、健太が今まで見たこともないような、強い輝きを放っていた。
「これを、千代に贈った」
玄斎の声は、囁くように静かだった。
「俺たちの、婚約の証としてな」
健太は息を飲んだ。ペンダントに近づき、食い入るように見つめる。
中央に据えられているのは、一粒の、決して大ぶりではないが、尋常ではない輝きを放つダイヤモンド。その石は、まるで内側から光が湧き上がってくるかのように、あらゆる角度から光を捉え、虹色のファイアを散らしていた。そして、そのダイヤモンドを支えているのは、白く、柔らかな光を湛えるプラチナの地金。
デザインは、驚くほどシンプルだった。
ダイヤモンドを、四本の爪が、まるで十字を描くように、東西南北からがっしりと掴んでいる。その爪は、ただ石を留めるための機能的な部分というよりは、石を守り、その存在を称えるための、力強い意志の表明のように見えた。その四本爪のセッティングから、滑らかな曲線を描くバチカン（チェーンを通す部分）が伸びている。潔いほどに装飾を削ぎ落とした、本質だけがそこにある、というようなデザインだ。
「美しい……」
健太は、思わず呟いた。
「美しいだろう」
玄斎は、そのペンダントをそっと指先でつまみ上げた。
「だがな、健太。俺が千代にこれを贈った時、俺たちは人生で最大の喧嘩をしていた。もう、これで終わりだ、と互いに思っていた時だ」
玄斎は、遠い過去を呼び覚ますように、ゆっくりと語り始めた。
それは、彼がまだ若く、陶芸家として全く芽が出ずにいた頃の話だった。自分の才能を信じながらも、現実は厳しく、作品は売れず、日々の生活にも事欠くありさま。一方、千代は堅実な家の娘で、玄斎との将来に言いようのない不安を抱えていた。
「ある日、千代が言ったんだ。『あなたには才能があるのかもしれない。でも、私にはあなたの芸術を食べて生きていくことはできません。私との生活と、あなたの陶芸と、どちらが大事なんですか』と。俺は、若かったし、傲慢だったからな。売り言葉に買い言葉で、こう言い返した。『お前のような、芸術の分からん女に、俺の苦しみが分かるか！俺の作品は、いつか必ず認められる。その時まで待てんというなら、出ていけ！』と」
家を飛び出した千代。一人残された工房で、玄斎は後悔と、それでも捨てきれないプライドの間で苦しんだ。数日後、彼はなけなしの金をかき集め、なじみの質屋の主人に頼み込んで、このペンダントを手に入れた。そして、千代の実家へと向かった。
「俺は、土下座して謝った。そして、このペンダントを彼女の前に差し出した。これは、ただの謝罪の品ではなかった。これは、俺からの『契約書』だった」
「契約書、ですか？」
「そうだ。いいか、健太。このペンダントのデザインをよく見てみろ」
玄斎は、ペンダントを健太の掌に乗せた。ひんやりとしたプラチナの感触と、ダイヤモンドの確かな重みが伝わってくる。
「この四本の爪。これは、ただのデザインではない。これは、東西南北、人生のあらゆる方角を表している。あるいは、春夏秋冬、巡り来るすべての季節を象徴している。これから俺たちの人生に、どんな方角から風が吹き、どんな厳しい季節が訪れようとも、この中心にあるダイヤモンド、つまり、俺たちの関係性の核となる部分は、決して揺らがない、という誓いだ。そして、この十字にも見える形。これは、俺がお前という名の十字架を、生涯背負っていく覚悟がある、という決意の表明でもあった」
十字架、という言葉に、健太はハッとした。修行、という玄斎の言葉と繋がった。
「そうだ。結婚とは、互いが互いの十字架を背負うことだ。相手の欠点、弱さ、過去、そのすべてを引き受けて、共に歩んでいくという、覚悟の儀式だ。だからこそ、婚約には、この地上で最も硬い物質、金剛不壊（こんごうふえ）の象徴であるダイヤモンドが使われるのだ。生半可な覚悟では、この石の重みには耐えられん」
玄斎は続けた。
「この石は、0.32カラットだ。決して、大粒ではない。俺の甲斐性が、その程度だったということだ。だがな、俺はこの数字に、別の意味を見出した。0.32……『みじゅく』だ。そうだろう？俺も、千代も、人間としてあまりに未熟だった。完璧な人間同士が結ばれるのではない。未熟な人間同士が、これから互いに磨き合い、成長していく。その出発点にこそ、この小さな、しかし、無限の可能性を秘めた輝きは、ふさわしいと思った」
未熟（0.32）。玄斎の言葉遊びのような、しかし本質を突いた解釈に、健太は鳥肌が立った。
「そして、このダイヤモンドを支える、この地金。Pt900、プラチナだ。金のように華やかではない。だが、その白い輝きは、純粋で、誠実だ。そして何より、プラチナという金属は、粘り強い。酸やアルカリにも強く、変質しにくい。日々の生活の汗や涙に触れても、その輝きを失わない。この粘り強いプラチナのように、どんな困難があろうとも、俺は俺たちの関係を支え続ける。ダイヤモンドという核を守り続ける。それが、このペンダントに込めた、俺のもう一つの誓いだ」
デザイン、素材、石の大きさ。そのすべてに、玄斎と千代の物語が、そして玄斎の人生哲学が、深く刻み込まれていた。
「千代は、黙ってそのペンダントを受け取った。そして、こう言ったんだ。『分かりました。私も、あなたのその覚悟、引き受けます。その代わり、あなたも私の十字架を背負ってください。私の現実感覚と、口うるささと、心配性を。そして、この輝きに恥じないだけの、飯を食わせてくれる陶芸家になってください』とな」
それは、甘い愛の言葉ではなかった。まさしく、これから始まる長く険しい『修行』への、厳粛な契約の瞬間だった。
「それからだ。俺たちの本当の戦いが始まり、そして、俺の陶芸が、本当の意味で始まったのは」
玄斎は、健太の掌にあるペンダントを、愛おしそうに見つめた。
「ダイヤモンドは、何で出来ているか知っているか？ただの炭素だ。そこらにある、ありふれた元素よ。それが、地球の奥深く、マントルの中で、想像を絶する高圧と高温に、何億年もの間さらされ続ける。その極限の苦しみの中で、炭素原子は、最も強く、安定した結晶構造へと生まれ変わる。それが、ダイヤモンドだ。ただの石ころが、光芒万丈（こうぼうばんじょう）の至宝へと変わるのだ」
玄斎は、健太の目をまっすぐに見た。
「人間も同じだ。お前も由美子も、今はまだ、ただの炭素の塊に過ぎん。だが、これから二人で暮らすという、マントルのような高圧と高温の中で、互いにぶつかり、削られ、磨かれていく。その苦しい時間を耐え抜いた時、お前たちの魂は、このダイヤモンドのように、唯一無二の輝きを放つのかもしれん。その可能性を、信じてみんか」
玄斎の言葉は、もう健太の頭ではなく、魂に直接響いていた。
相性の悪さこそが、最高の砥石。
喧嘩の火花こそが、器の景色となる灰。
価値観の違いこそが、至高の味を生む出会いもの。
そして、それらすべての苦難を引き受ける覚悟の証が、この輝き。
健太の中で、バラバラだったパズルのピースが、一つの壮大な絵を形作り始めていた。由美子の顔が浮かんだ。彼女の笑顔、怒った顔、泣き顔。そのすべてが、自分を形成してきた、かけがえのない要素だったことに、今、ようやく気づいた。彼女との喧嘩は、苦痛ではあったが、無意味ではなかった。それは、自分という鈍らを研ぎ澄ますための、耳障りだが、必要な音だったのだ。彼女は、自分にとって最高の砥石だったのだ。
「先生……」
健太の声は、震えていた。
「俺……」
「言うな」
玄斎は、健太の言葉を遮った。
「覚悟が決まったのなら、言葉は要らん。行動で示せ」
玄斎は、仏壇の前に戻ると、線香を一本立てた。その煙は、まるで千代の魂が頷いているかのように、まっすぐに立ち上っていった。
「そのペンダントは、お前にやる」
「えっ！？」
健太は、耳を疑った。
「そ、そんな、大切な奥様の形見を……！」
「阿呆。いつまでも、俺が持っていても仕方あるまい。物は、使われてこそ、その価値がある。それに、千代も、その方が喜ぶだろう。あの女は、俺が過去の思い出に浸って感傷的になるのを、何よりも嫌ったからな」
玄斎は、少し寂しそうに、しかしきっぱりと言った。
「それを持って、由美子という娘に会いに行け。そして、腹を括った男の顔を見せてやれ。これはな、『結婚してください』などという甘っちょろいプロポーズの道具ではない。これは、『俺と共に、地獄の修行を始めよう』という、挑戦状だ。そして、その挑戦を受ける覚悟があるのかと、彼女に問え。もし、その娘に、お前という十字架を背負う覚悟があるのなら、彼女は、そのペンダントを受け取るだろう」
健太は、掌の中のペンダントを、強く、強く握りしめた。その小さな輝きが、とてつもなく重く、そして、温かく感じられた。
終章：新たなる窯焚き、美味なる修行の始まり
翌日の夕暮れ時、健太は由美子と会っていた。いつもの公園の、いつものベンチ。だが、今日の空気は、いつもと全く違っていた。
健太は、この数日間の出来事を、玄斎の言葉を、そして自分の心の変化を、拙いながらも、必死に由美子に伝えた。相性の悪いことの意味を。喧嘩の価値を。そして、これから二人で始めたい『修行』について。
由美子は、黙って聞いていた。時折、驚いたように目を見開き、そして、やがてその瞳に涙を溜めていた。
健太は、最後に、震える手で桐の小箱を開け、玄斎から託されたペンダントを彼女の前に差し出した。
「これは、結婚の申し込みじゃない。俺からの、挑戦状だ。俺という、面倒で、頑固で、至らない男の十字架を、一緒に背負ってくれないか。俺も、君の明るさも、気まぐれも、寂しさも、全部まとめて背負う覚悟を決めた。これから、たくさん喧嘩もすると思う。たくさん傷つけ合うと思う。でも、そのすべてを乗り越えて、二人だけの景色を、二人だけの味を、作り上げていきたいんだ」
由美子は、何も言わなかった。ただ、静かに涙を流しながら、ペンダントを手に取った。そして、健太に「着けて」と、小さな声で言った。
健太は、震える指で、彼女の首にペンダントを着けてあげた。夕陽の最後の光を浴びて、彼女の胸元で、0.32カラットのダイヤモンドが、金剛不壊の輝きを放った。それは、まるで二人の魂が、これから始まる長い旅路を祝福するように、力強く、そして優しく煌めいていた。
一週間後。
玄斎の工房に、健太と由美子が、二人揃って訪れた。由美子の胸には、あのペンダントが輝いている。二人の間には、まだ少しぎこちない空気が流れていたが、それは以前のような棘のあるものではなく、互いを尊重し、見つめ合おうとする、初々しい緊張感に満ちていた。
「先生、この度は、本当にありがとうございました」
二人は、深々と頭を下げた。
玄斎は、ろくろを回す手を止めずに、二人をちらりと見ただけだった。
「ふん。礼を言われる筋合いはない。俺は、俺の楽しみのために、お前たちを焚きつけただけだ」
その口調は相変わらずだったが、その目元は、確かに笑っていた。
「まあ、座れ。腹は減っているだろう」
玄斎は、そう言うと、奥の厨房へと消えていった。やがて運ばれてきたのは、何の変哲もない、土鍋で炊いた白いご飯と、自家製の梅干し、そして、豆腐と若布の味噌汁だけだった。
だが、そのご飯は、一粒一粒が輝くように立ち、噛みしめるほどに深い甘みが口の中に広がった。梅干しは、強烈な酸味と塩味の奥に、芳醇な旨味を隠していた。味噌汁は、出汁の香りがふわりと立ち上り、心と体にじんわりと染み渡っていくような、滋味深い味わいだった。
それは、どんな料亭の豪華な料理よりも、心に響くご馳走だった。
「どうだ。美味いか」
「はい……！すごく、美味しいです」
由美子が、素直な声で答えた。
「そうか」
玄斎は満足げに頷いた。
「お前たちの修行は、まだ始まったばかりだ。これから、この飯のように、毎日毎日、飽きもせずに向き合い、その日の米の顔、水の顔を見極め、火加減を調整し、時には失敗し、それでもまた次の日には、もっと美味い飯を炊こうと努力する。そういう、地味で、果てしない繰り返しの先にしか、本物の味というものはない。せいぜい、二人で美味い飯を食えるように、励むことだな」
健太と由美子は、顔を見合わせて、小さく笑った。
その笑顔は、かつてのように、ただ楽しいだけの笑顔ではなかった。それは、これから待ち受けるであろう、数々の試練と、その先にあるであろう、二人だけの景色を、共に見つめていく覚悟を決めた、戦友の笑顔だった。
谷戸の工房には、土の匂いと、木の燃える匂い、そして、滋味深い味噌汁の香りが満ちていた。
玄斎は、そんな二人を横目で見ながら、静かに自分の器に箸を伸ばした。
（千代、見ているか。また、面白くなりそうだぞ）
心の中で亡き妻に語りかける。
空は、梅雨が明けたことを告げる、力強い夏の色をしていた。
新たなる窯に、今、静かに火が入った。それは、長く、苦しく、そして何よりも、美味なる修行の始まりを告げる、希望の炎だった。
;)
