大日本帝国海軍 重巡洋艦 二等巡洋艦 TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.313 軽巡洋艦 熊野 KUMANO

大日本帝国海軍 重巡洋艦 二等巡洋艦 TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.313 軽巡洋艦 熊野 KUMANO 收藏

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大日本帝国海軍 重巡洋艦 二等巡洋艦 TAMIYA 1/700 ウォーターラインシリーズNO.313 軽巡洋艦 熊野 KUMANO

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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝 
熊野(くまの)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。最上型の4番艦[6]15.5cm砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され[7]、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。一方、日本海軍の書類上の分類は戦没まで二等巡洋艦(軽巡洋艦)だった[6]
 
艦名
重巡洋艦『熊野』の艦名は奈良県、和歌山県、三重県を流れる熊野川から因んで命名された[8][9]。大日本帝国海軍(以下日本海軍)軍艦としての『熊野』は、明治時代の水雷母艦熊野丸、大正3年に日本郵船から購入した水雷母艦熊野丸に使用されている。またロシア帝国のバヤーン級装甲巡洋艦1番艦「バヤーン」を日本海軍が鹵獲・編入時の候補艦名でもあった(実際は一等巡洋艦阿蘇と命名)[10]
 
重巡洋艦熊野の艦内神社は熊野坐神社(現・熊野本宮大社)[11]。本艦建造時、熊野坐神社本殿を模した艦内神社が寄贈されたという[12]。毎月1日には熊野神社例祭が行われていた[13]
 
艦型
日本海軍は艦齢を重ねた旧式艦の代艦を建造することになり、軽巡の場合は最初に4隻(龍田、天龍、球磨、多摩)を以下4隻(最上、鈴谷、三隈、熊野)と置換することにした[14]。建造中、第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正され1番艦(最上)、2番艦(三隈)とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもある。ただし日本海軍の分類は4隻とも最上型二等巡洋艦である[6]。またボイラーは先行2隻(最上、三隈)の重油専焼罐大型8基小型2基・計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー数の減少の分だけ径が細くなっている。
 
艦歴
建造から太平洋戦争開戦まで
 
改装前の熊野
仮称艦名、第4号中型巡洋艦[15]1934年(昭和9年)310日、日本海軍は建造予定の二等巡洋艦を『熊野』[16]と命名し、艦艇類別等級表に類別された[17]45日、川崎重工業神戸造船所にて起工[1][18][19]
 
1936年(昭和11年)1015日、伏見宮博恭王[20]、永野修身海軍大臣[21]列席のもとに進水[1][22]。呉海軍工廠で製造された熊野用15.5cm三連装砲塔5基は、給油艦知床が呉から神戸へ輸送した[23] 127日、神戸川崎造船所に熊野艤装員事務所が設置された[24]
 
1937年(昭和12年)7月上旬、熊野は神戸川崎造船所から呉海軍工廠へ移動、艤装員事務所も移転した[25]88日、熊野艤装員事務所を神戸川崎造船所に戻す[26]9月下旬から10月上旬にかけて、艤装員事務所を呉海軍工廠に移転[27]109日、艤装員事務所を神戸に戻す[28]1031日就役[1][19]。その姿は一般にも公開された[29]。同型艦の鈴谷と同日の竣工だった[30]
 
1937年(昭和12年)121日、最上型巡洋艦4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)で第七戦隊が編制され、熊野は旗艦となった[31]126日、将旗を本艦に掲げた[32]
 
 
軽巡時代の艦首主砲(1939年)
1939年(昭和14年)520日に予備艦に指定され[19]15.5cm3連装主砲を20.3cm連装砲塔に換装する工事が行われた。1115日に第七戦隊が再編され、熊野は再び旗艦になった[33]
 
1940年(昭和15年)1011日、第七戦隊と第八戦隊の重巡5隻(熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩)は紀元二千六百年特別観艦式に参加した[34]。第七戦隊は司令官栗田健男少将、第一小隊に熊野、鈴谷、第二小隊に三隈、最上の編制で1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争の開戦を迎えた[35][36]
 
太平洋戦争序盤
第七戦隊は開戦後、マレー上陸作戦に参加する。蘭印作戦中に生起した1942年(昭和17年)31日のバタビア沖海戦には、第2小隊のみ参加する[37]。本海戦直前、連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将と、敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将は一日近く電文の応酬をくりひろげた[37]。みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し、仲裁に入る一幕もあったほどである[37]。栗田少将の行動について小島秀雄(海軍少将)は『あとで第七戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。先任参謀いわく、軍令部に、第七戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。大事にしてくださいと言われて、後におるやつがあるものか』と批評している[38]
 
41日より、第七戦隊はインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事[39]。第七戦隊は栗田少将直率の北方部隊(熊野、鈴谷、駆逐艦白雲)、三隈艦長指揮の南方部隊(三隈、最上、駆逐艦天霧)に分割されてベンガル湾で活動し、小沢治三郎中将直率の中央隊(鳥海、由良、龍驤、夕霧、朝霧)と共に商船多数を撃沈した[40][41]422日、第七戦隊は第19駆逐隊(綾波、敷波、磯波、浦波)と共に内地へ帰投した[42] 51日、栗田少将(第七戦隊司令官)は海軍中将に昇進[43]。 日本帰還後、第七戦隊はミッドウェー作戦に向けて準備を行う。第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)は第8駆逐隊(荒潮、朝潮)及び日栄丸を指揮下に入れ、護衛隊支援を任ぜられた[44][45]522日から622日にかけてミッドウェー作戦に参加する[46][47]
 
詳細は「三隈 (重巡洋艦)」を参照
65日、日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失した[47][48]。残存するアメリカ軍機動部隊とミッドウェー島基地航空隊の挟撃を避けるため、山本五十六連合艦隊司令長官および攻略部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官は、第七戦隊にミッドウェー島飛行場の艦砲射撃を命じる[48][49]。近藤長官は第七戦隊がミッドウェー島に一番近い位置にいると思っていたが、第七戦隊は長官の予想より80浬後方にいた[47]。第七戦隊は35ノットで9時間も突進したため、第8駆逐隊(朝潮、荒潮)は落伍してしまう[48][50]。だがミッドウェー島飛行場砲撃2時間前(同島より西方90浬地点)に作戦中止命令がだされ、第七戦隊は反転した[48][51]
 
この作戦過程で、浮上中のアメリカの潜水艦タンバーを回避しようとした単縦陣先頭艦(旗艦熊野)の航海信号が、後続艦(鈴谷、三隈、最上)に誤って伝達された[52][53]。結果、七戦隊3番艦(三隈)と4番艦(最上)が衝突[54][55]。栗田司令官は損傷の大きい最上に三隈、荒潮、朝潮の護衛をつけ、熊野と鈴谷を率いて主力部隊との合流を急いだものの[56]、そのまま所在不明となった[49][57]66日から67日にかけて、最上以下4隻はアメリカ軍の航空攻撃を受け三隈が沈没した[58]。この間、栗田及び第1小隊(熊野、鈴谷)はミッドウェー基地空襲圏外にでるため西方に向けて航行しており(連合艦隊司令部の命令も無視)、67日になって近藤信竹攻略部隊指揮官より三隈・最上救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した[49][57][59]。戦後、栗田は「そんな情況だったのには気付かなかった」、田中艦長は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第2小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている[57][59]
 
68日午前4時頃、攻略部隊は損傷した最上と朝潮、荒潮と合流した。行方不明の熊野、鈴谷が『まったく思いがけなく反対側の西方』から出現し、攻略部隊に合同した[49][60]。本海戦における栗田中将の行動や指揮に対し、日本海軍は特に問題視しなかった[61]。一方、鈴谷艦長木村昌福大佐は栗田(熊野座乗)の行動について、珍しく批判的なメモを残した[62]。また当時の鈴谷運用長前田一郎少佐は、「鈴谷は熊野と分離して単艦で三隈・最上救援にむかった」と回想しているが、確実な証拠はない[63]。 同日、第18駆逐隊(不知火、霞、陽炎、霰)は[64]、第七戦隊の指揮下に入る[65]614日から17日までトラック泊地所在[66]623日、熊野、鈴谷[67]と第18駆逐隊は呉に到着した[68][69]。 大破した最上は修理と改修のため825日に第七戦隊から外れた[70][71]
 
ガダルカナル島の戦い
1942年(昭和17年)625日、第七戦隊司令官は西村祥治少将に交代[72]。瀬戸内海で鈴谷と共にインド洋での通商破壊作戦(B作戦)に向けた作戦準備を行った[73] 717[74]、第七戦隊(熊野、鈴谷)、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)、第15駆逐隊(親潮、早潮、黒潮)等と共にマレー半島のメルギーに向かった[75][76]。 同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将、十六戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第三水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、熊野以下七戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[77][78]
 
B作戦実施前の87日、アメリカ軍はガダルカナル島とフロリダ諸島(ツラギ島)に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる[79]。メルギー待機中のB作戦参加各隊は、通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かう[80]。 その途中の814日、給油のため立ち寄ったバリクパパンで海図の不備により座礁[81]。復水器の冷却海水ポンプに泥を吸い込み使用不能となるという事態が発生したが復旧に成功し、816日に出港できた[81]。 第七戦隊は822日に南雲忠一中将率いる第三艦隊と合流した[82]。機動部隊における第七戦隊の役割は、第十一戦隊(戦艦《比叡、霧島》)や第八戦隊(利根、筑摩)等と共に前衛部隊としてアメリカ軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。田中(熊野艦長)は「駆逐艦兼おとり」と表現している[83]824日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦し、戦果も被害もなかった[84] 9月、ソロモン諸島で適宜行動[85] 1011日、機動部隊前衛はトラック泊地を出撃[86] 1013日、熊野で機関故障が続出したため18日附で第七戦隊旗艦は鈴谷に変更される[87][88]20日、本艦は機動部隊前衛から機動部隊本隊に編入され[89]、熊野水偵3機(搭乗員含む)は前衛(第八戦隊《利根、筑摩》、霧島)等に派遣された[90][91]
 
1026日の南太平洋海戦における熊野は護衛部隊(熊野、照月、浜風、嵐、舞風、雪風、時津風、初風、天津風)を編成し、第一航空戦隊空母3隻(翔鶴、瑞鶴、瑞鳳)と共にアメリカ軍機と交戦した[92]。この戦闘で熊野はSBDドーントレス急降下爆撃機の空襲により至近弾を受ける。1030日、トラック泊地に帰投[93] 112日、損傷した軍艦4隻(空母2隻《翔鶴、瑞鳳》、重巡《筑摩、熊野》)は駆逐艦部隊(第4駆逐隊《嵐、野分、舞風》、第17駆逐隊《谷風、浦風、浜風、磯風》、第10駆逐隊《秋雲》、第61駆逐隊《秋月》)に護衛され、日本本土へ向った[94][95] 117日、回航部隊のうち4隻(重巡《熊野、筑摩》、第17駆逐隊第1小隊《浦風、谷風》)は呉に到着[96][97]。まもなく瑞鶴と第16駆逐隊(初風、時津風)も呉に到着し[98][99]、熊野ふくめ各艦は修理に従事した[100]
 
11月下旬から12月上旬にかけて、「熊野」は第六十五旅団のマニラからラバウルへの輸送(夏輸送)に従事した[101]。この輸送の当初の参加艦は軽巡洋艦「北上」、「大井」、「名取」、「球磨」であったが、ポートダーウィンにおける敵の動向を受けて南西方面艦隊からの派遣艦が2隻から1隻となり、抜けた「名取」の代わりとして「熊野」と駆逐艦「谷風」が参加することになった[102] 1120日に修理を終えて1122日に呉を出港していた「熊野」は命令を受けてマニラへ向かい、1127日に到着した(「谷風」も呉から同行したものと思われる)[103]。「熊野」は人員885名と物件50トンをのせ、「谷風」とともに1128日にマニラを出港して124日にラバウルに着いた[104]。この航海中、「熊野」は鯨と衝突した[105]
 
124日日附で熊野と谷風は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された[106]。さらに、熊野は外南洋支援部隊に復帰した[107]。 それまで支隊と行動を共にしていた重巡摩耶、駆逐艦春雨をトラックに帰投させた後の126[108]、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した[107][109]。 その後、第七戦隊(熊野、鈴谷)は駆逐艦望月等と共にソロモン諸島での輸送任務や支援行動、ニューアイルランド島のカビエン周辺警戒任務に従事した[110][111][112]。また重巡3隻(鳥海、熊野、鈴谷)の水上偵察機がR方面航空部隊に編入され、駆逐艦部隊の上空警戒やガ島基地夜間爆撃に従事した[113]
 
1943年(昭和18年)14日、鈴谷が整備修理のためカビエンを出発した(112日、内地着)[114]1月下旬、日本軍はガダルカナル島撤退作戦(ケ号作戦)を発動。同時期、第七戦隊と共にカビエンで待機していた重巡鳥海が正式に外南洋部隊支援隊に編入される[115]127日にも軽巡川内(第三水雷戦隊)が同地に到着したので、支援部隊指揮官西村祥治少将は所在先任指揮官として、3隻(熊野、鳥海、川内)を指揮下においた[116][117] 2月上旬、カビエンで待機[118]29日附で機動部隊への復帰を下令され、4隻(重巡2隻《熊野、鳥海》、第17駆逐隊《谷風、浦風》)は211日にカビエンを出発、13日トラック泊地到着[119]。トラック着と共に鈴谷と合流し、3隻(鳥海、谷風、浦風)は西村少将の指揮下を離れた[120]
 
3月中はトラック泊地で待機[121]322日、熊野機関に故障が発生、西村司令官は旗艦を鈴谷に変更した[122]24日、鈴谷、熊野、浦風はトラック泊地を出発し、駆逐艦天津風が途中まで護衛した[123]。豊後水道で駆逐艦萩風と合流し[123]4隻で29日に呉へ到着した[124][125] 4月、熊野は呉で待機した[126]
 
ソロモン諸島の戦い
第七戦隊が呉で整備待機中の1943年(昭和18年)512日、アメリカ軍は北方方面で反攻作戦を実施、アッツ島に上陸を開始した(アッツ島の戦い)[127][128]517日、第七戦隊に最上(航空巡洋艦)が復帰した[129][130]。アリューシャン方面の戦いに備えて作戦準備を行うが[131]、アッツ島守備隊が529日に全滅し、第七戦隊は内海西部へ戻った[132]
 
615日附で第七戦隊は前進部隊に編入され、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下、第三戦隊(金剛、榛名)、空母3隻(龍鳳、大鷹、沖鷹)、軽巡五十鈴、駆逐艦部隊(第7駆逐隊《潮、曙、漣》、雪風、第17駆逐隊《浜風、谷風》、第27駆逐隊《時雨、有明、夕暮》、涼風、新月、清波)と共に横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した[133][134] 623日、熊野は鈴谷、新月、涼風、有明とラバウルへの輸送任務を実施、27日トラックへ戻った[135]。新月は外南洋部隊増援部隊に編入され、ラバウルに残った。
 
詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照
630日、連合軍はニュージョージア諸島のレンドバ島に上陸を開始、南東方面の状勢は緊迫化した(ニュージョージア島の戦い)。79日、第七戦隊は南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)の指揮下に入り、外南洋部隊支援隊に編入される[136][137] 710日、西村司令官直率の4隻(熊野、鈴谷、有明、朝凪)はラバウルに進出した[138]
 
715日、第七戦隊は外南洋部隊夜戦部隊に編入される[139][140]716日の出撃(熊野、鈴谷、川内、雪風、浜風、夕暮、清波)は空振りに終わった[141]
 
720日、第七戦隊指揮下の夜襲部隊(重巡3隻《熊野、鈴谷、鳥海》、水雷戦隊《川内、雪風、浜風、夕暮、清波》)は、輸送部隊(三日月、水無月、松風)と共にコロンバンガラ島輸送のためラバウルを出撃[142][143]。 だがPBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"に誘導されたアメリカ軍機の夜間空襲を受ける[144]。夕暮と清波が沈没した[145][146]。 熊野にはTBFアベンジャー雷撃機が投下した魚雷1本が命中[147]。魚雷を命中させた敵機は魚雷投下後「熊野」の後部マストに翼を引っ掛けて墜落した[148]という。 木俣滋郎によれば、魚雷ではなく反跳爆撃であるという[149]。舵故障を起こしたため熊野は浜風に護衛されて避退した[150]
 
721日、旗艦が鈴谷に変更された[151][152]。熊野は工作艦山彦丸の支援を受ける[153]729日、応急修理を終えた熊野は駆逐艦皐月、望月に護衛されてラバウルを出発、トラックへ回航される[154]。 トラックに到着後、8月中は工作艦明石等の応急修理を受けた[155]828日、トラック泊地を出発[19]92日、熊野と雪風は呉に帰還した[156][157]
 
熊野は呉にて修理を行った。 113日、熊野と駆逐艦浜風は南方へ出撃した[158][159]8日、トラック泊地着)[19]。 その後、小沢機動部隊と共にクェゼリン環礁等、中部太平洋諸島を行動する。 125日、トラック到着[160]127日、第七戦隊旗艦に復帰[161]25日までトラック泊地で待機[19]。その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)として参加する[162]。 ちなみに、戊一号輸送任務は3隻(戦艦《大和》、駆逐艦《谷風、山雲》)による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は重巡洋艦3隻(妙高、羽黒、利根)・駆逐艦2隻(白露、藤波)によるトラック〜カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、軽巡洋艦2隻(能代、大淀)・駆逐艦2隻(秋月、山雲)によるトラック〜カビエン輸送任務である[163] 1226日、熊野は戦艦大和に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう[164]。第一部隊(熊野、鈴谷、谷風、満潮)はアメリカ軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、再出撃[165]29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年(昭和19年)11日にトラック泊地に帰還した[166]
 
昭和19年の戦い
1944年(昭和19年)11日、重巡利根、筑摩が第七戦隊に編入した[167]1月はトラック泊地に滞在。21日、トラックを出発し8日にパラオへ移動[168]17日パラオ発、21日にリンガ泊地着[169] 31日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される[170]23日、筑摩に将旗が移り、熊野は第二小隊5番艦となった[171][172] 325日、第七戦隊司令官は白石萬隆少将[173]に交代。 46日、熊野は第七戦隊旗艦に復帰した[174]518日以降、熊野はタウイタウイ泊地に停泊した[175]
 
613日、熊野は同泊地を出撃して619日のマリアナ沖海戦に参加する[176]。熊野の水上偵察機がアメリカ軍機動部隊を発見し、その位置を報告した[177]。第七戦隊(最上のみ機動部隊乙部隊所属)は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将)に所属し、さらに第十一群(空母《瑞鳳》、戦艦《大和》、重巡《熊野、鈴谷、利根》、駆逐艦《早波、浜波、玉波》)を編成して戦闘に臨んだ[178]619日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射[179][180]625日、日本本土に戻った[181]。対空兵器などを増強[182] 78日、陸軍部隊のシンガポール輸送のため第一戦隊(大和、武蔵)等と共に呉を出撃[183]716日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した[19] 927日、通信機を特積する[184]
 
レイテ沖海戦
詳細は「レイテ沖海戦」を参照
10月中旬、捷一号作戦に於いて第七戦隊(司令官白石万隆中将:熊野《旗艦》、鈴谷、筑摩、利根)は、第一遊撃部隊(司令長官栗田健男中将)第二部隊(司令官鈴木義尾中将)に所属してアメリカ軍と交戦する[185]。だが激しい戦闘により第七戦隊は2隻(鈴谷、筑摩)を喪失し、熊野も大破した。経過は以下のとおりである。
 
レイテ湾に向け進撃中の1023日朝、栗田艦隊はパラワン島沖でアメリカ潜水艦2隻(ダーター、デイス)に襲撃され、重巡2隻(愛宕《第二艦隊旗艦》、摩耶)が沈没、重巡1隻(高雄)が大破して駆逐艦2隻(朝霜、長波)に護衛されて離脱という被害を出した[186][187]。愛宕沈没後の第一遊撃部隊指揮官栗田健男中将は第一戦隊司令官宇垣纏中将が座乗する戦艦大和(第一戦隊旗艦)に将旗を掲げた。熊野搭載の水上偵察機2号機・3号機は対潜哨戒の後、サンホセ基地に向かった[188]

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