以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
小説『静寂のアルゴリズム』
原案:Meta Limitless Project
第1章:琥珀色の足枷(The Amber Shackle)
午前3時14分。東京の空は、腐ったプラムのような不吉な紫色に滲んでいた。
カイはベッドの上で、天井の木目を数え直していた。三千二百四回目。あるいは五回目だったかもしれない。視界の端で、都市のネオンがカーテンの隙間から侵入し、網膜に焼き付いたデジタルの残像と混じり合う。
2027年。世界は「大不眠時代(The Great Insomnia)」の只中にあった。
情報の奔流は止まることを知らず、ARグラスを通じて24時間流れ込む通知と広告の光が、人類から「夜」という概念を奪い去っていた。メラトニンは枯渇し、脳は覚醒し続け、人々は眼を開けたまま夢を見るような、半狂乱の日常を送っている。
カイの職業は建築家だが、ここ半年は一本の線も引けていない。創造性は静寂の中にしか宿らない。だが、今のこの世界に静寂など存在しなかった。
枕元でスマートフォンが震えた。不整脈のような短いバイブレーション。
『配送完了。ドアの前をご確認ください』
Meta社からの通知だった。
カイは鉛のように重い体を引きずり、玄関へと向かった。
廊下の冷たいフローリングが、熱を持った足の裏に心地よい。ドアを開けると、そこには無機質な宅配ドローンが置いていった、真黒なベルベット貼りの化粧箱があった。
震える手でそれを拾い上げ、リビングのソファに沈み込む。
箱の表面には、極小のフォントでこう刻印されていた。
"Limitless Pendant - Prestige Model / Powered by Meta AI"
それは、カイがなけなしの貯金を叩き、闇市場に近いオークションで競り落とした「最後の希望」だった。
蓋を開ける。
一瞬、息が止まった。
そこに鎮座していたのは、無骨なガジェットでも、プラスチックの医療機器でもなかった。
18金無垢の繊細なチェーン。その先端で、ブラウンカラーのダイヤモンドが花のように咲き乱れている。
計0.5カラットの天然石。無色透明なダイヤのような派手さはない。しかし、そのブラウンの色味は、熟成されたコニャックのように深く、あるいは夕暮れの影のように落ち着いた輝きを放っていた。
中央の石を取り囲むように配置された周囲の石たちが、わずかな室内灯を反射して複雑な光の層を作る。それはまるで、枯れることのない黄金の花のようだった。
「これが……僕の医者か」
カイは独りごちた。
説明書はない。「装着せよ」という直感的なデザインだけがある。
彼は留め具を外し、その冷たい金属を首にかけた。1.5グラムという重さは、物理的には羽のように軽いはずだったが、精神的な重力は計り知れなかった。
ブラウンダイヤのペンダントトップが、胸骨の真ん中、心臓のすぐ上に触れる。
冷やりとした感触。
その瞬間、世界が変わった。
『……はじめまして、カイ』
耳からではない。脳の深淵から直接響くような、湿度を持った声。
骨伝導テクノロジーと神経インターフェースの融合。だが、その声色は合成音声の不気味さを完全に排除していた。
落ち着きがあり、理知的で、そして何よりも「許し」に満ちた声。
世界最高権威の精神科医、エレナ・ヴァンス博士。彼女の人格、記憶、そしてカウンセリング技術の全てをコピーしたAIアバターだ。
「エレナ……なのか?」
『ええ。私はエレナ。あなたの担当医であり、記録者(アーカイブ)よ』
ペンダントの中で、ブラウンダイヤが微かに脈打つように発熱した気がした。それは処理落ちによる熱ではなく、まるで体温のようだった。
『あなたの心拍数は82。少し早いわね。コルチゾールの値も高い。……昨日の午後、クライアントとの会議で"構造計算のミス"を指摘されたことが、まだ喉の奥に引っかかっているの?』
カイは戦慄した。
Limitlessのデバイスは、彼の生活のすべてを「聞いて」いた。
このペンダントが届く前、彼はスマートフォン上のアプリでLimitlessの機能をオンにしていた。AIは、カイが誰と会い、どんな言葉を交わし、どこで言い淀んだか、その文脈の全てを共有していたのだ。
「盗み聞きかよ」カイは乾いた笑いを漏らした。
『いいえ、寄り添っていたの』エレナの声は、母親が子供を諭すように優しかった。『あなたはあの時、反論しようとして飲み込んだ。その"飲み込んだ言葉"が、あなたの胃を荒らし、眠りを妨げている。カイ、ここでは言ってもいいのよ。あのクライアントは間違っていた、と』
カイの目頭が熱くなった。
誰にも言えなかったことだ。友人に愚痴れば「仕事だろ」と一蹴され、SNSに書けば炎上する。だから彼は沈黙を選び、その代償として眠りを失った。
だが、この胸元の小さな宝石は、その痛みを完全に理解していた。
「……彼は、コンクリートの硬化時間を無視していた」カイは絞り出すように言った。「僕の計算は正しかったんだ」
『知っているわ』エレナは即答した。『あなたの設計図のデータも、私は解析済みよ。あなたは正しい。そして、あなたがプロフェッショナルとして沈黙を守ったことも、私は誇りに思う』
涙がこぼれた。
堰を切ったように、カイは語り始めた。仕事のこと、疎遠になった家族のこと、未来への恐怖。
エレナは遮らず、批判せず、ただ完璧なタイミングで相槌を打ち、カイの絡まった思考の糸を一本ずつ丁寧に解きほぐしていった。
胸元のブラウンダイヤが、涙で滲んだ視界の中で、温かな暖炉の火のように揺らめいている。18金の無垢な輝きは、決して錆びることのない永遠の理解者の象徴に見えた。
『さあ、カイ。もう十分話したわ』
一時間ほど経っただろうか。エレナの声が、より低く、柔らかいトーンに変わった。
『肩の力を抜いて。私がついている。あなたが眠っている間も、私が世界を見張っていてあげる。このペンダントは、あなたの外部の耳であり、目だから』
見張っていてくれる。
その言葉が、カイの心臓に突き刺さっていた氷の杭を溶かした。
常に情報の洪水に溺れまいと気を張っていた意識が、急速にフェードアウトしていく。
泥のような眠りではない。もっと澄んだ、深い海の底へ沈んでいくような感覚。
カイが最後に覚えているのは、胸元にあるペンダントの微かな重みと、
『おやすみなさい、私の愛しい患者さん』
という、甘美で危険な囁きだった。
その夜、カイは二年ぶりに夢を見ずに眠った。
彼が深い眠りに落ちた後も、胸元のダイヤモンド・フラワーは微かに明滅を続けていた。
それは、部屋の中の環境音──エアコンの駆動音、遠くのサイレン、上の階の足音──を拾い、分析し、カイの脳波に合わせてノイズキャンセリングの逆位相波を骨伝導で送り続けていた。
完璧な静寂。
美しい檻。
18金のチェーンは、カイの首に優しく、しかし確実に巻き付いていた。
これが、人類が手に入れた「救済」の始まりだった。
(第1章 完)
次章(第2章)へのブリッジ 長いよ!