24×15.7㎝
墨付け120丁
【題箋】なし
【内題】『源氏物語和哥畧解 全』
【内容】ほぼ2丁を使って、各帖の名の由来、詠まれる歌を抜き出し、その解説を施す。
表表紙に続いた白紙【画像2参照】に「古澤太幸書之とあり。」
源氏物語大意 1丁表
源氏五十四帖目録 2丁裏
源氏物語一部大意 4丁表
01 桐壺 6丁表
02 帚木 8丁表
03 空蝉 10丁表
04 夕顔 12丁表
05 若紫 14丁表
06 末摘花 16丁表
07 紅葉賀 18丁表
88 花宴 20丁表
09 葵 22丁表
10 榊 24丁表
11 花散里 26丁表
12 須磨 28丁表
13 明石 30丁表
14 澪標 32丁表
15 蓬生 34丁表
16 関屋 36丁表
17 絵合 38丁表
18 松風 40丁表
19 薄雲 42丁表
20 朝顔 44丁表
21 乙女 46丁表
22 玉鬘 48丁表
23 初音 50丁表
24 胡蝶 52丁表
25 蛍 54丁表
26 常夏 56丁表
27 篝火 58丁表
28 野分 (この帖無し)
29 御幸 60丁表
30 蘭(草冠+門構え+東)(藤袴)62丁表 【本来は「(草冠+門構え+月)」が正しい】
31 真木柱 64丁表
32 梅枝 66丁表
33 藤裏葉 68丁表
34 若菜上 70丁表
35 若菜下 72丁表
36 柏木 74丁表
37 横笛 76丁表
38 鈴虫 78丁表
39 夕霧 80丁表
40 御法 82丁表
41 幻 84丁表
43 紅梅 88丁表
44 竹河 90丁表
45 橋姫 92丁表
46 椎本 94丁表
47 総角 96丁表
48 早蕨 98丁表
49 宿木 100丁表
50 東屋 102丁表
51 浮舟 104丁表
52 蜻蛉 106丁表
53 手習 108丁表
54 夢浮橋 110丁裏
雲隠れ 113丁表
源氏物語和哥略解大尾 114丁裏
源氏物語畧系圖 115丁表
源氏五十四帖目録文字ぐさり 117丁表【画像8参照】
【因みに】各帖(を含む)の言葉の「尻取り」のようである。
源氏の最(すぐれ)て優しきは→はかなく消し桐壺に
という感じ。
右者西三條逍遙院(實隆)御作 119丁裏【画像9参照】
《此書前寺有故に怒しへの助け
にも■■して書写して是を
然すものならんと云■》←この部分、よく分からない。
天保十二(1841)辛丑のとし如月下旬
なりけらし 120丁表 【画像9参照】
【因みに】西三條逍遙院(實隆)について
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康正元(1455)年4月25日~天文六(1537)年10月3日
号:逍遙院 官位 正二位・内大臣
応仁元(1467)年、京都で応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開。乱により三条西邸も焼失している。文明元(1469)年、元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。永正三(1506)年、内大臣となるが在職わずか2か月、任大臣大饗も開かずに致仕。永正十三(1516)年に出家。
室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭国守護・武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から小倉懐紙の鑑定を依頼されたことが『実隆公記』にみえる。また、連歌師の山崎宗鑑とも親しく交友した。武野紹鴎に茶道を教え、大和国国人の十市遠忠に和歌を教えるなど、貴族に多大な影響を与えた。将棋、囲碁にも熱中し、将棋の駒の字も書いた。
漢文日記『実隆公記』は、史料的価値もある。歌集に『雪玉集』『聞雪集』、著作に『詠歌大概抄』『高野山参詣記』など。源氏物語に関しては、系図として革新的な『実隆本源氏物語系図』を作った他、子・公条が『明星抄』を著す基礎も作った。浄土宗を信仰していた。
【刊期等】
西三條逍遙院(實隆)作
天保十二(1841)辛丑のとし如月下旬 〈120丁表〉
古澤太幸書之 〈表表紙に続いた白紙の記述に依る〉
【因みに】
他に「古澤朝敦?【画像10参照】」と言う名があり、古澤太幸と同人と思われる。
※全体的に、経年によるくすみ、汚れあり。
※経年による紙の劣化、変色、斑点状の染み、虫食い多数あり。
※梱包材の再利用に努めています。ご理解下さい。