出品物は、非常に貴重な盛岡藩で門外不出とされて来た、武道柔術の秘伝諸賞流に関連する大量の古文書です。
諸賞流は、大名家の盛岡藩南部家で正式名称を「観世的真諸賞要眼狐伝流」和(柔術)、縄術からなり、足当、肘
当、目潰しを中心とした内容の柔術を伝えることで知られる。盛岡市無形文化財の指定を受けている。
歴史
諸賞流の伝承によると、遠祖は藤原鎌足で当初は狐伝流と称し、その150年後、伝承が絶えようとした時に坂上田
村麻呂が流名を観世流と改めて復興させ、鎌倉時代に源頼朝が主催した相撲大会で観世流27代の毛利宇平太国
友が活躍して源頼朝より称賛され並み居る諸侯が賞賛したという意味で、諸賞流と名乗るよう申し渡されたと伝えら
れている。
諸賞流が盛岡藩に伝わったのは、諸賞流21代(観世流47代)岡武兵衛庸重の代。岡武兵衛は盛岡藩で医業の家に
生まれたが、武芸を好んで諸国を巡り多くの武芸を学んだ。その際、鎌倉に隠棲していた京都の浪人である石田
辰之進定政より諸賞流を学んで印可を受けた。後に岡武兵衛庸重は盛岡藩へ帰り、当時の盛岡藩主・南部利幹に
召抱えられ盛岡の地で諸賞流が伝承されるようになった。
岡武兵衛庸重には、熊谷治右衛門・中館判之亟・永田進の3人の高弟がいた。岡武兵衛は自らを寛竜軒と号し、熊
谷に竜の字を与え英竜軒の号を授け、中館に寛の字を与え寛応軒の号を授けた。以降、伝承者には熊谷派では英
〇軒、中館派では寛〇軒の軒号を用いるようになった。これを軒号持字という。それぞれ宗家となって諸賞流を伝承
したが、熊谷派と永田派は明治期に失伝した。伝えられているのは中館の系統である。中館派では、57代の松橋宗
年が師範を継承する前に南部利済より御留流を申し付けられ、また59代の斗ヶ沢宜樹の時より無辺流を合わせて学
ぶようになった。
出品物は、中館派関連の家臣達の書状類と思われます。