この画(与謝蕪村の絶筆とする画)には、俳句(発句)と、その俳句の詠み手、松尾芭蕉が描かれているように見える。
しかし、画に書かれている俳句は厳密に言うと松尾芭蕉が詠んだ句、オリジナルではない。画に書かれている俳句は、松尾芭蕉が詠んだ句を与謝蕪村が改訂したものである。
「いかめしきあられの音や桧木笠(ひのきがさ)」与謝蕪村版(与謝蕪村の改訂案)
そして、俳句(発句)の下方に、旅の衣装の僧侶、杖と桧木笠。
この僧侶は、松尾芭蕉のように見える。
そして、松尾芭蕉はこの句を実際には次のように詠んでいる。
「いかめしき音やあられの桧木笠(ひのきがさ)」芭蕉版(オリジナル)
与謝蕪村の改訂版と、原典版。同じ俳句(発句)の違いは、次のとおりである。
(あられの音や)与謝蕪村の改訂案
(音やあられの)松尾芭蕉の俳句、もともとの形
与謝蕪村の改訂案は、松尾芭蕉の句と確かに違っている。
そして、松尾芭蕉らしき肖像に注目。
絵に描かれた松尾芭蕉は、とても複雑な、奇妙な表情を浮かべている。顔を紅潮させて、これは怒りがこみ上げてきている松尾芭蕉。
松尾芭蕉のこの奇妙な表情は、おそらくは、自分が詠んだ句が、自分が詠んだオリジナルとは違った風に書き取られている事に、気づいてしまった事による驚き、与謝蕪村という画(書)の描き手に対する不信感、警戒心、結果、ふつふつと沸き起こる怒りから来ていると思われる。しかも、絵の中の松尾芭蕉には、反撃が出来ないのも画の中の松尾芭蕉の歪んだ怒った表情の理由であろう。納得がいかない、そういう気持ち。
(なんという図々しい野郎だろうか。与謝蕪村! 吾輩、俳聖、松尾芭蕉の句にケチをつけるというのは!)
松尾芭蕉は、おそらくは思ったに違いない。
そうではあるが、他方、松尾芭蕉は、理解していた。
(与謝蕪村は、ワシのこの句に対して、与謝蕪村という男、不要なケレン味を嗅ぎつけたに違いない。そして、この句に対して、与謝蕪村として、『遺作(最後の仕事)、絶筆』として、意を決して、与謝蕪村自身は、わしの句そのものではなく、この句の改訂案を画に書き出したのだ)
「いかめしきあられの音や桧木笠」与謝蕪村版
それは、もともとは、
「いかめしき音やあられの桧木笠」松尾芭蕉のオリジナル版
念のために!
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ところで、この画の左下にポツリとある印は、「奚疑(けいぎ)」という言葉が彫られている。「奚疑(けいぎ)」とは、達観してこの世にサヨナラという心境である。この言葉は、与謝蕪村の名の由来でもある『帰去来辞(ききょらいのじ)』から来ている。「奚疑(けいぎ)」は、『帰去来辞(ききょらいのじ)』の結びの言葉である。
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用の説明 蕪村の絶筆
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与謝蕪村の絶筆は、天下を驚かす大作ではなく、シンプルな作品という驚き。さらに、松尾芭蕉への異議という、そこにあるさらに思いがけない内容。与謝蕪村のキャラは顔をのぞかせ輝いている
与謝蕪村は、晩年を描いた。自分の実人生の老いることから、「死」に至るまでのドキュメンタリー風の俳諧の連作著作によって自分の「死」の現実を表現しようとした。そして、表現を成立させるための方便として架空の芸子、小糸を創造した。蕪村が愛する架空の小糸は、蕪村の手紙著作(『花鳥篇』)を通して実際の人物として取り扱われる。しかし、小糸という存在は、蕪村が創造した架空の人物であった。
そして、この与謝蕪村の「死」の物語、自作自演の俳諧連作の「死」の物語の結末は、与謝蕪村の辞世の句「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」を含む臨終三句で知られる『夜半亭終焉記』という題名の作品につながることになった。
与謝蕪村は、同じような考えで、自分の人生が「死」へと向かう様子の記録を「画」というジャンルにも持ち込んだ。「死」に直面した自身の最後の瞬間の絵画作品においても、死への道を歩む自分のドキュメンタリーの表現者として、数は知れないがいくつかの作品を残した。自分の「死」という現実を「画」という形で表現し、後世に残そうというのであった。そういう狙いの作品を与謝蕪村は画いた。そして、その狙いの作品とみられる二作品を、オークションオークションに出品した。自分の死に直面しての覚悟と決意をあらわす「奚疑」の印のある作品、つまり蕪村の絶筆に相当する作品と死に至る予備的段階の作品、二本の軸の「漁師と猟師」を描いた作品、この二作品である。
この「画」というジャンルにおける「臨終」の連作においては、与謝蕪村は作品に対して特別なルールを作った。
この与謝蕪村のルールとは、この一枚一枚の画は、この「死」へのドキュメンタリーとして、この作品たちにおいては、自分の肉体の崩壊の進行の様を、作品ごとの落款や、作品ごとにあらためて彫る印によって表現しようということであった。つまり、与謝蕪村の「画」による終末ドキュメンタリーの作品においては、この「死」の連作の「画」においては、一般的な真性保証という他の与謝蕪村の画の場合とは、役割、意味合いが違う落款と印となるということであった。
このようなやり方、このような「死」へと向かう肉体の崩壊を表す指標としてのサインや印の運用については、与謝蕪村は『夜色楼台図』という作品において、与謝蕪村は、すでに実績があった。
『夜色楼台図』という画においては与謝蕪村は、自身の精力の消失を印で表現しているのだ。
与謝蕪村の自身の「死」へのドキュメンタリーとしての連作の「画」において、与謝蕪村は、作品が「画」かれたときの自分の肉体・体力の崩壊具合を表現するために、そのような「死」のバロメータとして用いるために、作品ごとにあらためて印を彫った。与謝蕪村の死の一歩手前の、絶筆、「奚疑」の印の押された最終作では、与謝蕪村の命の炎が消えかかっているのを表すように作品に押された印はぼろぼろの状態で、断末魔の苦しい与謝蕪村の具合が見て取れる。
「奚疑」の印の写真を最後(9番目)に載せています。
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与謝蕪村の思惑と蕪村一門を襲った悲劇
ところで、『漁樵問答之図』の画と絶筆の松尾芭蕉の俳句(発句)の画によって、与謝蕪村は、日本画になかった「サイン」と印の使い方を発明したのだということをここで確認しておく必要がある。
それはそれでよいとして、この与謝蕪村の「サインと印」の新方式の利用は、新たな問題を生むことは予想できた。つまり、これまでは、「サインと印」とで果たしてきた、作品の真正保証の機能がこの「サインと印」の使い方では失われてしまうということになるのではないだろうか。
従来の「サインと印」の方式を捨てたなら、これが本物の蕪村の画であるということをどうやって確認したらよいのだろうか。この「サインと印」を生命のバイタリティを示す指標として活用する方式が生み出すだろう問題について、与謝蕪村は十分に理解していた。
だから、真正を表す「サインと印」とをなくした代わりに、与謝蕪村は、作品の真正を保証するものとして(作者名や題名などを作者自身の自筆で書くという)共箱形式にした箱を『漁樵問答之図』につけて、茶道具で行われているようにこの箱によって中の作品の真正を保証するというということを考えた。
この共箱は、『漁樵問答之図』の画には、用意することができたのだが、絶筆の松尾芭蕉の画には用意できなかった。瀕死の与謝蕪村の体力がそれをゆるさなかったのだ。
与謝蕪村は、生命力のバロメータとしての新しい「サインと印」のシステムと作品の真正をする共箱の存在について与謝蕪村は、十分に家族や一門の者たちに伝えて、そして、与謝蕪村はこの世を去って行った。
しかし、与謝蕪村の死後、寛政の改革で世の中の価値観は与謝蕪村が思ってもいなかった方向を変化してしまい、与謝蕪村が正しいと思っていたことが大悪と評価されてしまう世の中がやって来て、与謝蕪村を巡る一切の合切(いっさいがっさい)のことについて話したり、後進に伝達することができなくなり、結局、与謝蕪村が考え出した生命力のバロメータとしての「サインと印」の方式のために、臨終の2作品は、正体不明の作品として日本画マーケットを漂流することになった。
(2026年 3月 29日 21時 46分 追加)私は、「Facebook 和泉 清」「Facebook 和泉清」としてこの十年くらいに3000本の日本画や芸術のエッセイを書いています。私のFacebookアカウントのタイムラインにこの画について多くの情報があります。この画については、Facebookのタイムラインで2ヶ月くらい前に、真剣考察しています。そちらは、参考になると思います。
(2026年 3月 29日 21時 59分 追加)蕪村の画のサイズ(単位cm)
松尾芭蕉 の画
本体 95 X 29.5
全体 107 X 46
漁樵問答之図
本体 130 X 27〜8
全体 189 X 44
(2026年 3月 30日 6時 26分 追加)訂正!松尾芭蕉の画のサイズは、高さは、107cmではなく170cmです。