Revell LIGHT CRUISER SMS EMDEN エムデン 1:350 05039
必ず説明文を、●●●の箇所までは、お読み下さい。
2025年3月1日頃より、500円スタートします!!
ウォッチリストにいれてそれまでお待ちください!!
この商品の他に、全て、軍艦・艦船等の年代物プラモデルを80品程出品します。未組立多数
早稲田大学卒業後、社会科教師をしていた父が30~50年前に集めたものです。アメリカに買い付けに行ったレアな物もあります。(どれかは不明)
高齢になり視力も下がった為、自分での制作を断念しました。
価値のわかる方へお譲りをしたいです。
日本・アメリカ・フランス・中国各種あります。(日本とアメリカが多い)
高値に設定してありますが、それで良い方はご購入ください。全て出品後しばらくしてから、一斉に値下げ予定です。(500円スタート等予定)
私のプロフィール出品リストより、他の出品物をチェックしていってください。多忙の為、1日に数点づつの出品となる事をご容赦下さい。
現在価格で構わない方は入札お願いします。(落札後発送いたします)
待たれる方は、ウォッチリスト登録してお待ち下さい。(値下げされたら通知される設定をおすすめします)
複数落札いただいた場合、可能な限り同梱いたします。落札後に承ります。必ず落札後の取引後、必ずその事を連絡ください。特に記入なければそのまま発送いたします。
長年保管品です。撮影の為に開封した物、最初から開封済の物有ります。ノークレームノーリターンです。
申し訳ありませんが物置に埃をかぶって置いていたため、外箱の痛みひどい物もあります。(自分で価値を理解し買ったのに保管には興味なかったようで・・・)
中袋未開封品は多いです。父も細かい事等は自信が無いそうで、現状は写真にて確認下さい。
また、私がプラモデルとしての知識ゼロの為、専門的な事のご質問はお答えできかねます。
尚、発送は慎重に行わせていただきますが、万が一の運搬中の破損などは責任を負いかねます。
写真を見て、説明に納得していただき、30~50年前のレア物を製作する事への意義を見出せる方、ぜひいかがでしょうか。(万が一、中身の一部が欠品等も私ではわからないです
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ここから下は、参考にウィキペディア引用しています。ご興味のある方お読みください。レア 年代物 希少 骨董 マニア プラモデル お宝
エムデン(SMS Emden)(初代)は、ドイツ帝国海軍のドレスデン級小型巡洋艦の1隻。艦名はエムス川沿いにあるドイツの都市、エムデンに由来する[1]。1909年に就役し、翌年清国の青島を本拠地とする東洋艦隊に配属された。エムデンは優美な船型から「東洋の白鳥」とも呼ばれた[2]。第一次世界大戦では主にインド洋方面で通商破壊戦を行い大きな戦果を挙げた。ミューラー艦長の行動は戦時国際法に則った紳士的な振る舞いであり、船舶乗員は丁重に扱われた。エムデンは1914年11月9日にオーストラリア海軍の軽巡洋艦「シドニー」との戦闘で破壊された。
建造費は680,000 マルクに上り、ドイツ海軍にとっては最後のレシプロ機関艦であった。姉妹艦の「ドレスデン」は直結タービンを使用していた。
艦歴
エムデンはプファイル代艦として発注され、1906年4月6日にダンチヒ工廠で契約がなされた[3]。1906年11月1日起工。1908年5月26日に進水し、艦名の由来となったエムデンの市長Leo Frbringerによって命名された[4]。1909年7月10日就役[5]。
1910年4月1日、エムデンは清国、膠州湾租借地の青島を拠点とする東洋艦隊に配属となった[4]。エムデンは1910年4月12日にアジアへ向けキールを発ち、その途中で南米への親善訪問を行った[4][6]。5月12日にモンテビデオに着き、そこで東アメリカ艦隊に配属された巡洋艦ブレーメンと合流。2隻は5月17日から30日までブエノスアイレスに滞在しドイツ代表としてアルゼンチン独立100周年記念祭に参加した。それから2隻はホーン岬をまわり、エムデンがバルパライソに立ち寄る一方、ブレーメンはそのままペルーへ向かった[4]。
良質な石炭の不足のため太平洋横断は遅れた。エムデンはチリ海軍の基地があるタルカワノでどうにか1,400tほど石炭を積むと、6月24日に出航した。途中荒天のためイースター島に立ち寄り、7月12日にタヒチのパペーテに停泊。7月22日にドイツ領サモアのアピアに到着し、東洋艦隊と合流した。艦隊は10月にサモアを離れ、本拠地である青島へ向かった。10月27日から11月19日までエムデンは長江へ派遣され、漢口も訪れている。日本の長崎を訪問後、毎年の修理のため12月22日に青島に戻った[4]。だが、ポナペ島でソケースの反乱発生のためエムデンが必要となり、修理は実施されなかった。エムデンは12月28日に青島から出航し、香港からの巡洋艦ニュルンベルクと合流した[7][8]。
2隻の到着により旧式巡洋艦コルモランなどであったポナペ島のドイツ軍は増強された。1911年中旬、艦艇は叛乱者を砲撃したり、乗組員などからなる上陸部隊を派遣した。2月末までには叛乱は鎮圧され、2月26日に到着した巡洋艦コンドルと交代して他の艦は3月1日に青島へ向け出発。グアム経由で3月19日に到着した。そして、エムデンはようやく修理を行うことができた。1911年中頃、エムデンは日本への航海を行った。その際台風に遭遇し日本船と衝突事故を起こしている。その結果、再びドック入りのために青島へ向かうこととなった。1911年10月10日に辛亥革命が起きると、エムデンは長江へ派遣された[9]。11月、東洋艦隊司令官がマクシミリアン・フォン・シュペー中将にかわった[10]。
カール・フォン・ミューラー
12月初旬、エムデンは座礁したドイツ船Deike Rickmers救援のため仁川へ向かった[9]。1913年5月、カール・フォン・ミューラー少佐(その後すぐに中佐に昇進)がエムデン艦長となった[11][12]。6月中旬、中部太平洋のドイツ植民地を巡航する。次いで、エムデンは揚子江沿いの中国人の暴動を鎮圧するように命じられた。1913年8月にイギリス及び日本の艦艇と合流し、暴動勢力を制圧した。8月14日、上海へ移動[13]。
第一次世界大戦
1914年6月28日にサラエボ事件が発生し、ヨーロッパ情勢は緊迫。エムデンは青島にとどまるよう命じられた[14]。当時、エムデン以外の東洋艦隊主力は青島を離れていた。ミューラーは、日露戦争の仁川沖海戦で、港内から脱出できず撃破されたロシア艦のようにならないようにと考えた[15]。エムデンは1914年7月31日に石炭運搬船エルスベートを伴って青島を離れ、しばらくエルスベートを護衛した後済州島へ向かった[16]。8月2日、ロシアと開戦したことがエムデンに伝わった[17]。
本艦に鹵獲されたロシア貨客船「リャザン」改め仮装巡洋艦「コルモラン」。グアムにて撮影
8月4日、対馬海峡でウラジオストクに向かっていたロシアの貨客船「リェーサン」(3,500トン)を拿捕し、乗客がいることや仮装巡洋艦とするのに適していることから青島へ回航を決定した[18]。装甲巡洋艦デュプレクス、モンカルムを中心とするフランス艦隊が付近にいたが、それに捕まることはなく[19]、8月6日に青島に到着した[20]。リェーサンは改装され仮装巡洋艦コルモランとなった。
ミュラーは航海中にマリアナ諸島へ向かえ、との命令を受けていた[21]。8月7日、エムデンは石炭を積んだHAPAGの汽船マルコマニアおよび仮装巡洋艦プリンツ・アイテル・フリードリヒとともに青島を離れた[22]。途中でマルコマニアを分離し、エムデンとプリンツ・アイテル・フリードリヒは敵船を捜索したが、遭遇したのはまだ中立国であった日本の船のみであり、またマルコマニアと合流できず同船は無線機が故障していたため連絡も不可能となった[23]。8月12日にパガン島に到着し、シュペー提督および装甲巡洋艦シャルンホルスト、グナイゼナウなどと合流した。[24]。マルコマニアは翌日到着した[25]。
シュペーは石炭補給可能なアメリカ西海岸へ向かうことにしたが、ミューラーは太平洋横断中は敵と戦えないなどとして反対し、少なくとも巡洋艦1隻をインド洋へ向かわせることを提案[26]。最終的にエムデンの単独行動が認められた[27]。
艦隊は8月13日夜にパガン島を離れた。8月14日、エムデンは東へ向かう艦隊主力と別れ、マルコマニアとともに南西へと進路をとった[28]。エムデンはアンガウル島へと向かい8月19日に到着、そこでマルマコニアから石炭の補給を行った[29]。またそこで、北ドイツロイドの郵便船プリンツェシン・アリスから日本がドイツに最後通牒を突きつけたことを知らされた[30]。8月20日、旧式巡洋艦ガイエル(en:SMS Geier)の電波を受信[31]。エムデンはその発信地点へ向かって8月21日にガイエル、石炭運搬船ボックムと短時間会合し、それからモルッカ海峡へと向かった[32]。8月22日に海峡に入り、翌日日本の汽船と遭遇[33]。その日は日本の最後通牒の回答期限であったが、ドイツが何らかの交渉などを行っている可能性を考えミュラーはこの船を見逃した[34]。エムデンはティモール島へ向かい、会合予定であった石炭船タンネンフェルツが発見できなかったため、24日に再びマルコマニアから石炭を補給した[35]。翌日には日本の宣戦布告を放送で聞き、8月27日に石炭運搬船オッフェンバッハとの会合のためタナ・ジャンピア島の湾に入った[36]。そこで中立国オランダの軍艦トロンプに遭遇し、オッフェンバッハは領海外へ送り返されたことを知らされた[37]。オランダは3ヶ月につき24時間のみ領海内での給炭を認めていた[37]。エムデンはすぐにそこを離れた[38]。ミュラーはインド洋へのルートとしてロンボク海峡を選び、エムデンは8月23、24日夜に無事に海峡を通過した[39]。
8月末には、エムデンに対抗するため英国との共同作戦により日本海軍の『筑摩』と『伊吹』がシンガポール経由でジャワ島方面に出撃したが、出撃の情報が到着の数日前にシンガポールで流布してエムデン側に出撃を察知され、この間エムデンはベンガル湾で英国汽船5隻を撃沈したため、シンガポール日本領事館の駐在武官・荒城海軍少佐が「シンガポールの在留日本人が噂を流したことで作戦が失敗し、英国に対して面目を失した」として日本語紙記者に住民に対し警告を発するよう求めたとされている[40]。
インド洋での活動
撃沈されるまでのエムデンの航海図。
9月3日、石炭補給のためエムデンはシムルー島沖に到着[41]。翌日、島の湾内に入りマルコマニアからの補給を開始した。[42]。ここでは補給船ウルムが来ているはずであったがその姿はなかった[42]。この場所はイギリスの装甲巡洋艦ハンプシャーが捜索に訪れており、エムデンが24時間早く来ていたらハンプシャーに発見されていたところであった[43]。翌日オランダ船が現れて24時間超過のため出港を要求し、エムデンは島を離れた[44]。9月9日、中立国のギリシャ貨物船ポントポラスを発見[45]。ポントポラスはイギリス軍用の石炭を運んでおり、交渉の結果船長はドイツの傭船となることを了承した[46]。
エムデンはコロンボ・カルカッタ航路へ向かい、9月10日にはイギリス船インダスを停船させその搭載物資を移載後沈めた[47]。翌日にもイギリス船ローバットを発見し、沈めた[48]。カルカッタへ向かったエムデンは9月12日にはアメリカ向け貴重品を載せたイギリス船カビンガとイギリス石炭運搬船キーリンを停船させ、キーリンは食料が運び出された後13日に沈められた[49]。9月13日にも紅茶を積んだイギリス船ディプロマットを沈めた[50]。9月14日、沈められた船の乗組員がカビンガで解放された[51]。またこの日石炭運搬船トラボックとイギリス貨物船クラン・マゼソンを沈めた[52]。これらの間に出会ったイタリア船ロダリノや、解放したカビンガにより存在が知られたため、エムデンのカルカッタ沖での行動は終了した[53]。
9月16日、エムデンはアンダマン諸島でポントポラスから石炭を補給し、その後低速のポントポラスは単独で会合場所へと向かわせた[54]。エムデンはラングーン沖へと向かい、ノルウェー船ドヴレを発見[55]。この船によってクラン・マゼソンの乗組員が解放された[56]。
エムデンによる通商破壊はインド洋の連合軍通商航路に大きなパニックを巻き起こした。商船の戦時保険料が急騰し、多くの船舶が出港を見合わせた。これはたった一隻の巡洋艦による影響としては大きなものであった。
マドラス砲撃
本艦の砲撃により炎上するマドラス港。(1914年撮影)
続いてミューラーはマドラスを砲撃することでイギリス海軍の威信失墜をもくろみ[57]、エムデンは西へ向かい9月22日にマドラスを砲撃した。攻撃目標にマドラスが選ばれたのには以下のような理由があった[58]。
ラングーンから離れている。
海上から港湾施設への接近が容易。
攻撃目標の詳細な位置を知っている乗組員がいた。
エムデンは17時にマルコマニアを分離すると4本煙突に擬装して17ノットで目標へ向かった[59]。擬装用の煙突はエムデンが3本煙突なのに対してイギリス巡洋艦が2本または4本煙突であることから用意されたもので、イギリス巡洋艦ヤーマスのものに似せて作られていた[60]。21時45分には海岸から2800から3000メートルに接近し、停止すると砲撃を開始した[61]。エムデンは最初は砲台を砲撃し、それから石油タンクを砲撃して炎上させた[62]。砲台からの反撃もあり、9発が発射されたもののエムデンに命中はしなかった[63]。125から130発を発射するとエムデンは砲撃をやめ、航海灯をつけたまま北へ向かい、陸が見えなくなると明かりを消して南へ向かった[64]。砲撃により35万ガロンの燃料油が焼失し、港湾施設の多くが破壊された[65]。マドラスの人的被害は少なかったが、油貯蔵地区では4人が死亡[65]。また被弾した船でも一人が死亡し、それはエムデンの攻撃で死亡した唯一の商船乗組員であった[65]。この攻撃は市民に大きな心理的影響を与え、イギリスの権威を失墜させた[63]。多くの人々が更なる攻撃を恐れて逃げ出した[65]。