◆完全未使用ピン札 板垣退助100円札 B号券 連番10枚 超美品◆
★明治時代の政治家・板垣退助の肖像画が描かれている100円札は、「板垣退助100円札」とも呼ばれています。「日本銀行B号」という券種の一種であり、ほかには聖徳太子などがあります。1953年から1974年まで発行、使用されていたもので、現行の紙幣として使用可能です。
折れ目はありません。発行以来70年以上経過した古い物ですが、丁寧で大切に保管して来ましたので経年の劣化・汚れ等も全く見受けられない完全に綺麗な状態を保持しております
★完全未使用ピン札 の同等品…番号は画像とは相違しますので、予めご了承のほどお願い申し上げます。
◆参考資料◆
★倒幕派の土佐藩士
土佐藩の武士の長男として生まれました。子どもの頃は、あまり勉強が好きではなく、幼なじみの後藤象二郎(ごとうしょうじろう)とけんかばかりするわんぱく者でした。
大政奉還(たいせいほうかん)を掲げる土佐藩の考えよりも、武力で幕府を倒す倒幕派の考えに同調し、西郷隆盛(さいごうたかもり)らと共に行動します。
★会津攻略で学ぶ
1868年、31歳のときに戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まると、土佐藩兵を率いて転戦しました。宇都宮城を攻める際には、日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)が戦場になることを避けるよう、旧幕府軍に働きかけました。
会津戦争では、会津藩を降伏させ、鶴ヶ城(つるがじょう)(会津若松城(あいづわかまつじょう))は開城しました。このとき、武士が戦っている一方で、多くの民衆が先を争って逃げ出す様子を見て、身分の差別なく、心を一つに国民みんなが参加できる政治を考えるようになります。
★自由民権運動
1869年、明治新政府の参与となり要職を歴任しますが、征韓論(せいかんろん)が反対されたことに不満を持ち、1873年、36歳のとき、新政府を去り、高知に戻ります。その後は、国会の開設を求め、自由民権運動を活発に展開します。
1882年、45歳のときに、岐阜で演説中に刺客に襲われますが、そのときに「吾死するとも自由は死せん」と発言しました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」と言ったと伝わっています。
◆お願い◆
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