仙台藩13代藩主・伊達慶邦の夫人・伊達孝子(たかこ)・自筆「百人一首」の和歌
伊達孝子は、系図では継室となっている。正室がなくなったあと正室になったもので
系図上では「継室(正室)と記される。実際は「正室」と呼ばれていた。夫人ということもある。
元々は、茶会の「茶掛」として掛軸に表装されておりました。
海外展示の際に「額縁」に装丁されたものです。
伊達孝子(たかこ)の和歌は「ちらし書」と呼ばれる書法です。文字を散らして布置するわが国独自の書き方です。この書法の歴史は平安時代の康保3年(967)の「紙背仮名消息」(滋賀・石山寺)、同じく平安時代の公卿・藤原公任(きんとう)自筆『北山抄』「仮名消息」(京都国立博物館)が知られております。各行に高低の変化をつけ、流暢(りゅうちょう)に続く連綿はきわめて美しいもので「百人一首」の書法として平安時代の公卿卿などの間で広まり、その後大名家の姫君の間で用いられておりました。
自筆下部の印は、伊達慶邦の夫人・孝子(たかこ)の(印譜)
原本自筆上部には、「舟船(しゅうせん)の中に夜、琵琶を弾く者を聞く」《舟の中から夜、琵琶を奏でているのが聞こえてきた。》白楽天の元和十年(815年)江州での作。琵琶行という有名な漢詩。この漢詩は白楽天が司馬に左遷された翌年、客人を河口に見送ったおり舟の中から夜、琵琶を奏でる音が聞こえた。その音色は都会の音色である。弾いている人を尋ねてみると昔、長安の女性で琵琶の名人に学んだという。弾き終わったと、若い時の楽しかったことを語り合った。筆者の伊達孝子(たかこ)は、御三家のひとつ、江戸時代後期の大名で常陸国水戸藩の第9代藩主徳川斉昭の娘。伊達孝子(たかこ)は、八代姫(やしろひめ)として当時の徳川美人三姉妹の次女ともてはやされた。仙台藩第13代藩主・伊達慶邦の夫人として嫁いだ後も八代姫(やしろひめ)と称された。孝子(たかこ)は、和歌や漢詩の素養もある教養のある女性として知られておりますが、「百人一首」を記す際、漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細な理由は下記説明欄に記載。
出品した「百人一首」自筆の内容(原文の読み下し文)は次の通りです。
「参議雅経(さんぎまさつね)」
「美(み)よしの(吉野)ゝ山(やま)のあき(秋)かせ(風)さよふ(更)けて
ふるさとさむ(寒)くころも(衣)う(打)つなり」
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」(教科書仕様)としております。
(2)・出品した「百人一首」自筆の内容(原文の現代語訳文)は次の通りです。
「参議雅経(さんぎまさつね)」
「吉野の山の秋風が夜ふけて吹きわたり、
古京である吉野の里は寒く、寒々と衣を打つ音が聞こえてくる。」
現代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大学名誉教授)
(3)・出品した「百人一首」自筆の内容(英訳文)は次の通りです。
《参議雅経》
The autumn wind blows
from the mountains of Yoshino
deep into the night—
As the ancient capital grows colder
the villagers beat fabric into softness
英語訳文(英文)の出典:『100 Poets: Passions of the Imperial Court』
Michael Dylan Welch(百人の詩人・宮廷の情熱)《2008年》
(4)・出品した「百人一首」自筆の内容(中国語訳文)は次の通りです。
《参議雅経》
故国秋起,吉野山。
寒砧催夜尽,衣衫。
備考・参議雅経(さんぎまさつね)は、飛鳥井雅経(あすかいまさつね)のこと。参議雅経は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公家・歌人。治承4年(1180年)叙爵し、以後侍従などを歴任するが、源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかった父・頼経が配流され、雅経も連座して鎌倉に護送される。だが、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を妻とするなど重んじられた。建久8年(1197年)に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈物を与えられた。
その後、後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、建保6年(1218年)には従三位に叙せられ、承久2年(1220年)には参議に任命された。また、院における歌壇でも活躍している。和歌は秀句を好み、後鳥羽上皇に「雅経は、殊に案じかへりて歌詠みしものなり(=雅経はとりわけあれこれ思いめぐらして歌を詠む者である)」と評された。建仁元年(1201年)7月和歌所寄人となり、また同年11月には上古以来の和歌を撰進する。更にこれを機に始まった勅撰和歌集『新古今和歌集』(元久2年(1205年)奏進)の撰者の一人となった。更に蹴鞠でも重んじられ、承元2年(1208年)に大炊御門頼実が後鳥羽上皇を招いて開いた鞠会で優れた才能を発揮して、上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられた。後に雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされ、『蹴鞠(しゅうきく)略記』などを著した。また、鎌倉幕府の招きによって鎌倉へ度々下向し、3代将軍になった実朝と藤原定家・鴨長明との間を取り持っている。
「額縁入原本」
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
写真によって大名の正室らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
仙台藩13代藩主・伊達慶邦の夫人・伊達孝子(たかこ)の書体は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。下の印は、伊達慶邦の夫人孝子(たかこ)の落款。
原本自筆上部には、「舟船(しゅうせん)の中に夜、琵琶を弾く者を聞く」《舟の中から夜、琵琶を奏でているのが聞こえてきた。》白楽天の元和十年(815年)江州での作。琵琶行という有名な漢詩です。
参考資料:「参議雅経」
出典・出典・財団法人小倉百人一首文化財団・所蔵
「百人一首」原本の和歌番号100(順徳院)に記されている仙台藩の藩印
写真左上の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の下の2つの印は仙台藩主第13代藩主・伊達慶邦の夫人・孝子(たかこ)の印。「孝子(たかこ)」は伊達孝子のこと。
原本自筆上部には、「舟船(しゅうせん)の中に夜、琵琶を弾く者を聞く」《舟の中から夜、琵琶を奏でているのが聞こえてきた。》白楽天の元和十年(815年)江州での作。琵琶行という有名な漢詩です。
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は正室・夫人一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
「額縁裏面ラベル・伊達孝子の写真・仙台城復元写真」
上段が、額縁裏面ラベル。下段右は伊達孝子の写真。左の写真は仙台城の復元写真)。
「断層画像写真」
《断層画像写真番号(和歌番号と同じ)》
拡大画像によって大名の夫人らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
伊達慶邦の正室で伊達孝子(たかこ)は、漢文と違った和歌の素養を発揮しなめらかで、やわらかな書体は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。
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仙台第13代藩主正室・伊達慶邦の正室で伊達孝子(たかこ)・自筆(直筆)「百人一首」を出品
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自筆者に関する説明
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自筆「百人一首」自筆には、「孝子」の落款がある。
仙台藩13代藩主・伊達慶邦の正室の伊達徽子(たかこ)は、嫁ぐ前は(八代姫・やしろひめ)と称され、嫁いだ後もしがらくは(八代姫・やしろひめ)と称された。正室が没したあとの正室となる。この場合、正室を継いだという意味で継室となる。一般的には夫人と称される天保12年(1841)~明治2年(1869)伊達徽子は28歳で没した。このため、出品した「百人一首」は、まだ若いころの自筆であることがわかる。筆致に若い女性特有のやわらかい筆跡がみてとれる。
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自筆
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自筆切の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。日本の和紙の場合、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がることが断層画像写真によって鮮明となります。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。自筆原本は茶会用の掛軸から外され海外展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
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寸法
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「百人一首」原本の大きさ タテ27.0センチ ヨコ11.8センチ。額縁の大きさは、タテ40.0センチ ヨコ30.0センチ。額縁は新品です。
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解読文
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出品した書には、「原文の読み下し文・現代語訳文」(解読文)を掲示し、平易に解読し読むことができるようにしております。
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稀少価値
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所蔵経緯(来歴)
1・自筆「百人一首」には、仙台藩13代藩主・伊達慶邦の正室の伊達孝子(たかこ)の押捺がある。
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HP
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伊達孝子(たかこ)・自筆「百人一首」の和歌の書を出品いたしました。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」
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