以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです～～
金の残照 (The Afterglow of Gold)
第一章：伽藍堂の王
東京という都市は、眠らないのではない。眠れないのだ。無数の窓の灯りは、安息を求める魂の瞬きであり、サイレンの遠吠えは、この巨大なコンクリートの森で迷子になった者たちの悲鳴だ。田中健司（48歳）は、その眠れない都市の縮図のような男だった。
西新宿のタワーマンション、42階。床から天井まで広がる窓の外には、宝石を撒き散らしたような夜景が広がっている。人々が羨むその景色は、健司にとってはただの光のノイズでしかなかった。建築家として、彼は成功していた。彼の名を冠した美術館や商業ビルが、この東京の景色の中にいくつも突き刺さっている。メディアは彼を「光と影の魔術師」と持て囃し、その年収は9桁に届こうとしていた。だが、彼の内面は、自身が設計したミニマルなコンクリート建築のように、冷たく、がらんとした伽藍堂だった。
もう半年以上、熟睡という感覚を忘れていた。処方された睡眠薬は、泥のような浅い眠りをもたらすだけで、目覚めはいつも鉛を飲み込んだような倦怠感から始まる。医師は「典型的なうつ状態ですね。成功者の燃え尽き症候群（バーンアウト）の一種でしょう」と、まるで他人事のように告げた。処方箋の数が増えるたび、健司は自分がただの壊れた機械になっていくのを感じていた。
三年前、妻の律子が家を出て行った。離婚届と共にテーブルに置かれていた手紙の言葉が、今も耳の奥にこびりついている。
「あなたと一緒にいると、世界で一番孤独を感じる。あなたの設計する建物は、とても美しい。でも、人が住むための温かみがない。あなたの心と、同じね。もう疲れました」
その指摘は、彼の作品の本質を、そして彼自身の魂の欠落を、あまりにも正確に射抜いていた。反論の言葉さえ、見つからなかった。
一人娘の美優は、都内の私立大学に通っている。月に一度、高級レストランで食事をするのが、父娘の間に課せられた儀式だった。だが、その会話はいつも空疎だ。彼女のサークルの話、友人の話、将来の漠然とした夢。健司は相槌を打ちながら、ただ高価なワインを口に運ぶ。彼女の瞳の奥に、自分への諦めと、ほんの少しの軽蔑が宿っていることに気づかないふりをしながら。学費と潤沢な小遣いを振り込むこと。それが、彼が父親として示せる、唯一の愛情表現だった。彼は、愛という感情さえ、金で買えると思っていた。あるいは、そう思うことで、自身の感情の欠如から目を背けていたのかもしれない。
その夜も、健司は寝室とリビングを行き来する幽霊だった。書斎のローボードに並んだスコッチのボトルから、アイラモルトの「ラガヴーリン」を手に取る。ピート香の強い、癖のある液体をロックグラスに注ぎ、一気に呷る。アルコールが喉を焼き、思考を鈍らせてくれる瞬間だけが、唯一の救いだった。
ふと、視界の隅に埃をかぶった段ボール箱が入った。一年前、施設で亡くなった母・悦子の遺品だ。多忙を理由に、いや、本当は母の死と向き合うのが怖くて、ずっと放置していた。何かに憑かれたように、健司はカッターナイフを探し出し、無造作に箱のテープを切り裂いた。
中から現れたのは、母の生きた時間の断片だった。色褪せたアルバム、達筆な文字で綴られた日記、健司が子供の頃に描いた拙い絵。その一つ一つが、忘却の彼方に押しやっていた記憶の蓋を、こじ開けていく。その中に、そっと布に包まれた小さな桐の箱があった。ずしりとした、確かな重み。蓋を開けると、深い紺色のベルベットが敷かれ、その中央に一対のカフスリングスが鎮座していた。
それは、健司がこれまでに見てきた、どのブランドの宝飾品とも違っていた。柔らかなカーブを描く、クッションシェイプ。表面はサテンのような梨地仕上げが施され、光を柔らかく吸い込む。対照的に、縁の部分だけが鏡のように磨き上げられ、鋭い光の輪郭を放っていた。シンプルでありながら、揺るぎない品格と存在感。
手に取ると、その重みに息を呑んだ。24.4グラム。18金無垢の塊。裏返すと、精緻な刻印が目に飛び込んできた。
「Chopard, Geneve」
スイスの名門ジュエラー、ショパールの名。そして、その下には小さなホールマークが刻まれている。
健司は、このカフスを知っていた。憎むべき、父親の記憶と共に。
健司の父、哲夫は、彼が高校に入学してすぐ、あっけなく死んだ。急性心筋梗塞だった。健司の脳裏に焼き付いている父の姿は、いつも酒の匂いをさせ、眉間に深い皺を刻んだ、不機嫌な男の顔だけだ。
もともと、田中家は裕福だった。父は小さな貿易会社を経営し、世田谷に庭付きの一軒家を構えていた。健司は私立の小学校に通い、夏休みには家族で海外旅行へ行くのが恒例だった。しかし、健司が中学生の時、その幸福は砂上の楼閣のように崩れ去った。父の会社が、倒産したのだ。
原因は、健司にはよく分からなかった。ただ、家に差し押さえの赤い札が貼られ、世田谷の家を追われ、川崎の築40年の狭いアパートに引っ越したことだけは、鮮明に覚えている。父はプライドだけは異常に高く、自身の失敗を決して認めなかった。昼間から酒を飲み、母に当たり散らし、世の中のすべてを呪うような言葉を吐き続けた。健司は、そんな父を心の底から軽蔑した。かつて尊敬していた父は、見る影もなかった。父の死の報せを聞いたとき、悲しみよりも先に「解放された」と感じてしまった自分を、健司は今も許せずにいる。
このショパールのカフスは、そんな父が最後まで手放さなかった、唯一の「財産」だった。母が、自分の嫁入り道具の着物や宝石を一つずつ質に入れて生活費を捻出している時でさえ、父はこのカフスだけは頑として手放そうとしなかった。幼い健司の目には、それが落ちぶれた男の、最後のくだらない見栄の象徴にしか映らなかった。父の死後、健司は母に「そんなもの、売ってしまえばいいじゃないか」と吐き捨てたことがある。母は何も言わず、ただ悲しそうな顔で健司を見つめ、この桐の箱にそっとカフスをしまった。
「金の残照…」
母が、その時にぽつりと呟いた言葉が、雷鳴のように健司の記憶に蘇った。
「あのお父さんが遺してくれた、たった一つの、金の残照なのよ」
残照。沈みゆく太陽が、西の空に残す最後の輝き。それは、父の人生そのものを表しているようで、健司の胸を不快にざわつかせた。
なぜ、母はこんなものを。なぜ、父はこれを。
憎しみ、憐れみ、そして理解できない大きな謎。アルコールで麻痺しかけていた感情が、熱いマグマのように胸の奥からせり上がってくる。健司は衝動に駆られた。書斎のクローゼットの奥から、もう何年も着ていない白のドレスシャツを引っ張り出す。そして、その硬い袖口に、カフスを留めてみた。
カチリ。
時を超えて響くような、硬質で涼やかな音。その瞬間だった。世界が、歪んだ。
立っていられないほどの、激しい眩暈。ぐにゃりと曲がった空間が、猛烈な速度で回転を始める。耳の奥で、金属を擦り合わせるような甲高い音が鳴り響き、目の前の景色が、古いテレビの砂嵐のようにノイズに覆われた。足元の床が消え、奈落へと吸い込まれていくような、抗いがたい浮遊感。健司は、グラスを取り落とす間もなく、意識を失った。
第二章：昭和63年、父の戦場
意識の覚醒は、突然だった。
最初に感じたのは、アスファルトの熱気と、排気ガスの匂い。そして、耳を劈くような喧騒。クラクション、工事の騒音、そして人々のエネルギッシュな話し声。
健司は路上に立っていた。しかし、そこは彼が知る2025年の新宿ではなかった。
道行く車は、カクカクとしたデザインのセダンばかり。トヨタのマークⅡ、日産のセドリック。女性たちは、原色のボディコンスーツに身を包み、太い眉と真っ赤なルージュが印象的だ。男性は、ソフトスーツと呼ばれる、肩パッドが異様に入ったダブルのスーツを着て、誰もがセカンドバッグを小脇に抱えている。行き交う人々の髪は、例外なくスプレーで固められ、特に女性の前髪は、重力に逆らうかのように高く、大きくカールしていた。
街の空気が、まるで違う。誰もが浮かれ、誰もが前のめりで、欲望と楽観主義が粘り気のある熱となって、街全体を覆っていた。健司は吸い寄せられるように、近くの書店に駆け込んだ。店先の雑誌スタンドに並ぶ「週刊文春」の表紙には、はっきりとこう書かれていた。
【昭和63年10月5日号】
昭和63年。1988年。
バブル経済が、その狂乱の頂点を迎えようとしていた時代。
父・哲夫の会社が、倒産するわずか半年前。健司が13歳だった、あの頃。
「嘘だ…」
呟きは、誰の耳にも届かなかった。健司が道行く人にぶつかろうとしても、彼の体はまるで煙のように、その体をすり抜けてしまう。彼の声も、存在も、この時代の誰にも認識されない。彼は、未来から迷い込んだ、実体のない幽霊。ただ、過去を「見る」ことしか許されない、孤独な観察者になっていた。
なぜ、ここに？このカフスが？
混乱する頭で、しかし健司の足は、無意識のうちに一つの場所を目指していた。記憶の地図をたどるように。電車を乗り継ぎ（もちろん、彼の体は改札をそのまま通り抜けた）、たどり着いたのは日本橋のオフィス街に立つ、古びた雑居ビルだった。
見覚えがあった。4階の窓ガラスに、右から左へと書かれた、掠れた文字。
「田中交易 株式会社」
父の、城であり、戦場だった場所。
錆び付いた鉄の階段を上る。彼の心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。4階の事務所のドアは、曇りガラスで中の様子は窺えない。だが、中からは複数の人間の声と、電話のベルの音が絶え間なく聞こえてくる。活気、という言葉が相応しい喧騒。健司が震える手でドアノブに触れると、やはりその手は、冷たい感触もなくドアを通り抜けた。
彼は、息を殺して事務所の中へと、入った。
そこには、健司の知らない父がいた。
38歳の、若き日の田中哲夫。
記憶の中の、酒にやつれ、生気の失せた父とは別人だった。日に焼け、精悍な顔つき。白いワイシャツの袖を腕まくりし、電話の受話器を肩と耳で挟みながら、電卓を叩き、書類に何かを書き込んでいる。その目には、未来を信じる者の力強い光が宿っていた。
「…ええ、ええ！ですから、その船便を何とか押さえられれば、納期は必ず守れます！はい、私に任せてください！」
電話の向こうの相手に、彼は自信に満ちた声でそう告げていた。
事務所は狭く、5人も入ればいっぱいになるほどだった。若い男性社員が二人、そして、パートの女性が一人。そして…経理の席に座り、黙々と伝票を整理している女性の姿に、健司は息を呑んだ。
母だった。若き日の、母・悦子。
苦労を知らない、柔らかな笑顔。父を支えるその横顔は、健司の知らない幸福に満ちていた。そうだ、母は倒産するまで、父の会社を手伝っていたのだ。健司は、その事実さえ忘れていた。
電話を終え、額の汗をネクタイで拭う父。その瞬間、健司は見た。
父のワイシャツの袖口。そこで、鈍い黄金色の光が揺れた。
あの、ショパールのカフス。
それは、見栄や虚飾の象徴ではなかった。小さな会社の社長が、これから始まる大きな戦いに挑むための、ささやかな鎧。彼のプライドと、決意の証のように見えた。
その日から、健司の奇妙な「過去の観察」が始まった。彼は、父の影となり、その日々を追体験していった。
父・哲夫は、決して天才的な経営者ではなかった。むしろ、お人好しで、人を信じやすい、不器用な男だった。だが、彼には情熱があった。東南アジアから、まだ日本ではあまり知られていない高品質な木材や民芸品を輸入する。それが彼の事業だった。彼は、現地の生産者のもとへ何度も足を運び、膝を突き合わせて交渉した。言葉の壁、文化の壁。それでも、彼は誠意だけで乗り越えようとしていた。
「いいか、俺たちの仕事は、ただ物を右から左へ動かすだけじゃない。日本の人々に、まだ見ぬ素晴らしい文化を届けることなんだ。そして、現地の生産者の人たちの生活を、豊かにすることでもある。これは、そういう夢のある仕事なんだ」
社員たちに、彼は熱っぽくそう語っていた。その言葉に、嘘はなかった。健司は、父が寝る間も惜しんで、海外の資料を読み漁り、慣れない英語で手紙を書く姿を見た。接待の席では、下戸なのに無理して酒を飲み、相手の機嫌を取ろうと必死だった。そのすべてが、家族のため、社員のため、そして彼自身の夢のためだった。
健司は、忘れていた記憶の断片を、次々と見せつけられた。
ある夜、高熱を出した幼い健司を、父が夜通し看病してくれたこと。汗で濡れたパジャマを何度も着替えさせ、冷たいタオルで体を拭いてくれた、ごつごつとした大きな手。
健司の小学校の運動会。仕事で来られないはずだった父が、徒競走の直前に息を切らして駆けつけ、「健司、頑張れ！」と誰よりも大きな声で叫んでくれたこと。ゴールした後、父に抱き上げられた時の、汗とタバコの匂いが混じった父の匂い。
それらはすべて、健司が「父は自分を愛していなかった」という思い込みによって、記憶の奥底に封じ込めていた、愛の記憶だった。
そして、健司は、あのカフスの真実も知ることになる。
それは、母・悦子が、父の35歳の誕生日に贈ったものだった。会社を立ち上げて3年、ようやく事業が軌道に乗り始めた頃。母は、結婚する時に親から持たせてもらった内緒のへそくりを、すべてはたいて、銀座の宝飾店でこのカフスを買ったのだ。
健司は、その時の夫婦の会話を、アパートの壁を透かして聞いていた。
「あなた、お誕生日おめでとう。これ…」
恥ずかしそうに桐の箱を差し出す母。
「なんだ、悦子。こんな、俺にはもったいないよ」
箱を開け、カフスの輝きに目を見張る父。
「いいえ、もったいなくなんてないわ。あなたは、これからもっともっと大きな仕事をする人だもの。一流の男には、一流のものを身に着けていてほしいの。これは、私からあなたへの投資。そして、お守りよ」
「…悦子」
父は、言葉に詰まっていた。そして、照れくさそうに、しかし心の底から嬉しそうに、そのカフスを受け取った。
「ありがとう。大事にするよ。このカフスに、負けない男になる」
父は、その日から、一日も欠かすことなく、このカフスを身に着けるようになった。それは、妻の愛と信頼を、その両腕に纏うための儀式だったのだ。
健司の胸は、万力で締め付けられるように痛んだ。自分がどれほど、父を誤解していたか。自分が憎んでいた父の姿は、夢に破れ、すべてを失い、もがき苦しんでいた、人生の最終章の、ほんの一部分でしかなかったのだ。
そして、健司は、倒産の本当の理由を目撃することになる。
それは、事業の失敗などではなかった。仕組まれた、卑劣な裏切りだった。
父が心から信頼していた男がいた。山崎という、常務取締役。父より一回り年上で、この業界のベテランだった。父は、会社の経営の大部分を、この山崎に任せきりにしていた。「山崎さんがいてくれるから、俺は安心して外回りができるんだ」と、いつも母に感謝を語っていた。
だが、その山崎こそが、田中交易を破滅へと追いやった元凶だった。
父が会社の命運を賭けて進めていた、インドネシアからの高級チーク材の大量輸入プロジェクト。その全ての交渉を、山崎は担当していた。しかし、彼は裏で、競合の大手商社と繋がっていたのだ。田中交易が提示する価格や条件をすべて横流しにし、大手商社が常に一歩先んじて契約を結べるように画策していた。さらに、田中交易には、意図的に品質の悪い木材を掴ませ、多額の違約金が発生するように仕向けていた。その見返りに、山崎は大手商社から、莫大なリベートを受け取っていた。
健司は、赤坂の高級料亭で、山崎が競合他社の役員と密会している現場を見た。彼の幽体は、襖も壁も関係なく通り抜けられる。
「田中社長は、人が良すぎるのが玉に瑕でしてね。夢ばかり語っていて、足元が見えていない。おかげさまで、我々も潤わせていただいておりますよ」
卑屈な笑みを浮かべ、高価な酒を呷る山崎。
「まあ、彼には良い勉強になったんじゃないですか。世の中、そんなに甘くないってことをね。あの会社も、もう時間の問題でしょう。そうなったら、先生、例の件、よろしくお願いいたしますよ」
競合の役員と、汚い金の約束を交わす声。
「やめろ…！」
健司は叫んだ。山崎に掴みかかろうと腕を伸ばした。だが、その声は誰にも届かず、その手は虚しく山崎の体を通り抜けるだけだった。彼は、未来の結末を知っていながら、何もできない。指一本、触れることさえできない。ただ、目の前で繰り広げられる悲劇を、見ていることしかできないのだ。その無力感は、健司の心を粉々に打ち砕いた。
止めなければ。父に、知らせなければ。
健司は、父のそばで叫び続けた。「山崎を信じるな！」「奴は裏切り者だ！」。だが、父は何も聞こえない。健司の目の前で、父は山崎の言葉を信じ、次々と破滅への罠に足を踏み入れていく。
そして、すべてが、終わった。
品質の悪い木材は、買い手がつかなかった。契約不履行による、莫大な損害賠償。資金繰りは一気に悪化し、手形は不渡りとなった。銀行は、手のひらを返したように融資を打ち切った。
事務所には、執行官たちがやってきて、備品という備品に、赤い差し押さえの札を貼っていった。社員たちは、最後の給料も受け取れないまま、うつむいて去っていった。最後に残ったのは、父と、そして静かに寄り添う母だけだった。
がらんとした事務所の真ん中で、父は、抜け殻のように立ち尽くしていた。窓から差し込む西日が、床に散らばった書類をオレンジ色に染めている。それはまるで、会社の断末魔のようだった。
そこに、母が静かにお茶を淹れて、父の隣に座った。
父を責める言葉は、一言もなかった。ただ、黙って、その疲れ切った広い背中を、何度も、何度も、優しくさすっていた。
「あなた。お疲れ様でした」
母の、その一言。
その瞬間、張り詰めていた父の何かが、ぷつりと切れた。
父は、その場に崩れ落ち、両手で顔を覆った。その肩が、激しく震え始めた。
「う…うわああああ…！」
子供のような、嗚咽だった。健司が、一度も見たことも、聞いたこともない、父の慟哭。
信頼していた人間に裏切られた悔しさ。守るべき家族を、路頭に迷わせてしまった罪悪感。社員たちへの申し訳なさ。築き上げてきたすべてを、一瞬にして失った絶望。その全ての感情が、嗚咽となって事務所の空気を震わせた。
健司もまた、その場で泣いていた。幽霊の彼に涙はなかったが、魂が泣いていた。
ごめんなさい、父さん。何も知らずに、あなたを軽蔑していた。あなたの苦しみを、悲しみを、何一つ分かろうとしなかった。一番辛かった時に、僕はあなたを支えるどころか、冷たい視線で見ていただけだった。ごめんなさい。
どれくらいの時間が経っただろうか。父の嗚咽が、次第にしゃくりあげるような呼吸に変わっていった。彼は、ゆっくりと顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった、しかし、どこか吹っ切れたような顔だった。
そして、おもむろに、彼はワイシャツの袖口から、あのショパールのカフスを外した。
その輝きだけが、まるで何も変わらないとでもいうように、西日を浴びて静かに光っていた。
父は、それを母の手に、そっと握らせた。
「悦子…。すまない。本当に、すまなかった」
「いいえ…」母は首を横に振った。
「お前が、俺の成功を願って、買ってくれた、大事なカフスなのに。俺は、結局、何も残せなかった。会社も、家も…。だがな、これだけは。これだけは、売らないでくれ」
父は、母の手を両手で包み込むように、言った。
「いつか、健司が大人になったら、これを渡してやってくれないか。これはな、事業に失敗した、ダメな父親の形見じゃないんだ。お母さんが、こんな俺を信じて、愛してくれた、その証なんだ。そして、俺が、確かに夢を見て、輝いていた時間の、証なんだ」
父は、そこで言葉を切り、力なく、しかし、この上なく優しく微笑んだ。
「そう…金の、残照だ」
その言葉を聞いた瞬間。
健司の視界は、再び真っ白な光に包まれた。父と母の姿が、その眩い光の中に溶けていく。さよなら、父さん。さよなら、母さん。そして、ありがとう。
第三章：令和の夜明け、金の継承
意識が浮上する。冷たいフローリングの感触が、頬に伝わってきた。
健司は、自宅マンションのリビングの床に倒れていた。窓の外が、紫色とオレンジ色のグラデーションに染まっている。令和の東京の、夜明けだった。
右の手の中に、ひんやりとした金属の感触があった。開くと、そこにはあのショパールのカフスが、静かに光を放っていた。頬を、生温かいものが伝っていく。涙だった。しかし、それは、これまで彼を苛んできた孤独や絶望の涙ではなかった。心の奥に長年溜まっていた、固い澱がすべて溶け出し、洗い流されていくような、温かい浄化の涙だった。
父は、敗者ではなかった。
彼は、不器用ながらも、自分の夢と、家族への愛のために、最後まで戦い抜いた一人の男だったのだ。その戦いと、深い愛情の物語を、健司は48歳にして、ようやく知ったのだ。
不思議なことだった。一睡もしていないはずなのに、頭が、信じられないほどスッキリとしていた。目の前にかかっていた、分厚く、灰色の霧が、すっきりと晴れ渡ったような感覚。うつ状態の時に感じていた、あの鉛のような体の重さも、消えていた。
健司は、震える手でスマートフォンを手に取った。そして、迷わず、娘の美優の番号をタップした。午前5時半。こんな時間に電話をかけるなど、父親失格だと分かっていた。だが、彼は今、伝えなければならないことがあると感じていた。
数回のコールの後、眠そうな、少し不機嫌な声が聞こえた。
「…もしもし、お父さん？どうしたの、こんな朝早くに。何かあったの？」
「ああ、美優か。すまない、こんな時間に。いや、何かあったわけじゃないんだが…ただ、お前に、どうしても話しておきたいことがあってな」
健司は、言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。タイムスリップという非現実的な体験のことは伏せ、母の遺品の中から、祖父のカフスが出てきたことを話した。そして、自分が知らなかった、祖父・哲夫の本当の物語を。
彼がどれだけ情熱を持って仕事に取り組んでいたか。
彼がどれだけ家族を深く愛していたか。
彼が、卑劣な裏切りによって、すべてを失ったこと。
そして、あのカフスに込められた、祖母から祖父への愛と、祖父が最後に託した「金の残照」という言葉の意味を。
健司は、初めて、自分の父親の話を、自分の言葉で、娘に語っていた。それは、彼自身が、父を許し、受け入れるための儀式でもあった。
電話の向こうで、美優は、相槌も打たずに、ただ黙って聞いていた。健司が話し終えると、しばらくの沈黙の後、小さく鼻をすする音が聞こえた。
「…知らなかった。おじいちゃん、そんな人だったんだね。私、お父さんから、おじいちゃんの話、ほとんど聞いたことなかったから。お父さん、おじいちゃんのことが、嫌いなんだって、ずっと思ってた」
その言葉は、健司の胸に深く突き刺さった。娘は、すべてお見通しだったのだ。
「ああ。俺も、そう思っていた。ずっと、大きな間違いをしていたんだ。俺は、父さんのことを、何も分かっていなかった」
「…そっか」
美優の声は、少し震えていた。
「今度の週末、時間はあるか？」と健司は尋ねた。「もしよかったら、一緒におじいちゃんとおばあちゃんのお墓参りに行かないか」
「…うん、行く」美優は、即答した。
その週末、健司と美優は、多摩霊園の、小さな墓石の前に立っていた。秋晴れの空は高く、澄み渡っている。健司は、買ってきた菊の花を飾り、線香に火をつけた。
「父さん、母さん。遅くなって、ごめん」
健司は、心の中で深く頭を下げた。
墓参りの後、二人は近くの公園のベンチに座った。健司は、ポケットから桐の箱を取り出し、美優に差し出した。
「これを、お前に渡しておく」
美優は、おそるおそる箱を開け、中からカフスを取り出した。秋の陽光を浴びて、18金のカフスは、温かい光を放っている。
「きれい…。でも、これ、男性用でしょ？私がもらっても…」
「ああ。だから、今すぐ使えとは言わない。いつか、お前が、この人を心から愛し、この人となら人生を共に歩んでいけると、そう思える人が現れたら、その人に渡してやってくれ」
健司は、娘の目をまっすぐに見て言った。
「いいか、これはな、田中家の成功の証なんかじゃない。これは、どんなに苦しい時でも、人を愛し、信頼し、そして夢を見ることを諦めなかった、一人の不器用な男の、魂の証なんだ。おじいちゃんが遺した、『金の残照』だ。その想いを、お前に継いでいってほしいんだ。そして、お前は、お前の物語を、その先に紡いでいってくれ」
美優は、カフスを握りしめたまま、何も言わずにこくりと頷いた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。それは、健司が初めて見る、娘の美しい涙だった。二人の間にあった、分厚く、冷たい氷の壁が、音を立てて溶けていくのが分かった。
帰り道、健司は、元妻の律子にも電話をした。謝罪のためだった。
「突然すまない。少し、話したいことがあるんだ」
健司は、離婚の原因が、すべて自分にあったことを認めた。自分の冷たさ、傲慢さ、そして、人と心を通わせることから逃げていたこと。その根源に、父との歪んだ関係があったこと。彼は、初めて律子に、自分の弱さをすべてさらけ出した。
電話の向こうで、律子は静かに聞いていた。そして、最後にこう言った。
「…あなたが、やっと自分の心と向き合えるようになったのなら、よかった。私とやり直してほしいなんて思わない。でも、美優のこと、これからは、本当のお父さんになってあげて」
その声は、驚くほど優しかった。
月曜日の朝、健司は自分の設計事務所に出勤した。彼の顔つきが、以前とはまったく違うことに、社員たちはすぐに気づいた。険が取れ、どこか穏やかな表情になっていた。
健司は、現在コンペに出している、地方の市民ホールの設計図を、デスクの上に広げた。シャープで、モダンで、誰もが賞賛するであろう、美しいデザイン。しかし、今の健司の目には、それがかつての妻が言った通り、冷たく、人を拒絶しているように見えた。
彼は、赤いペンを手に取った。そして、建物の中心部分、大きな吹き抜けの空間に、大胆な円を描いた。
「ここに、図書館を兼ねた、大きなラウンジを作ろう。誰でも入れて、コーヒーを飲んだり、本を読んだり、ただぼんやりと過ごせるような、温かい空間を。壁は、コンクリートの打ちっ放しじゃない。温かみのある、あのインドネシアのチーク材をふんだんに使おう」
父が、日本に届けたかった、あの木材を。
健司は、生まれ変わったようだった。
もう、不眠も、うつも、彼を苛むことはなかった。夜になれば自然と眠気が訪れ、ぐっすりと眠り、朝には希望と共に目覚める。彼が設計する建築もまた、変わっていった。ただ美しいだけの箱ではない。そこに集う人々の、笑い声や、語らいや、温かい物語を育むための、器としての建築。
数年後。
美優は、大学を卒業し、出版社で働き始めた。そして、彼女には、結婚を約束した恋人がいた。健司も何度か会ったが、誠実で、優しい、好青年だった。
ある晴れた日、美優は健司の事務所を訪ねてきた。そして、少し恥ずかしそうに、あの桐の箱を健司の前に置いた。
「お父さん。私、これを、彼に渡そうと思う」
健司は、微笑んで頷いた。
「そうか。父さんも、喜ぶだろう」
父・哲夫が遺した「金の残照」。
それは、時を超え、世代を超えて、確かに受け継がれた。絶望の淵から掬い上げられた父の魂は、今、息子の腕の中で再生し、そして、孫娘の未来を照らす、温かい光となっていた。
健司は、窓の外に広がる東京の街並みを見つめた。かつてはノイズにしか見えなかった無数のビルの灯りが、今は一つ一つ、誰かの人生の物語を宿した、愛おしい輝きに見えた。
金の残照は、消えはしない。それは、愛と信頼がある限り、人の心の中で、永遠に輝き続けるのだ。健司は、手元にあった設計図に、柔らかな光が差し込む、新しい窓を一つ、描き加えた。
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