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「源氏物語」松風の巻・明石の入道・娘・明石の君のために大堰の邸を造営・大炊御門宗氏・自筆・茶道・茶道具4-B
「源氏物語」松風の巻・明石の入道・娘・明石の君のために大堰の邸を造営・大炊御門宗氏・自筆・茶道・茶道具4-B [浏览雅虎原始页面]
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令和6年から「源氏物語」の作者・紫式部をモデルにしたNHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されております。

京都の公卿・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵

自筆「源氏物語」の「松風(まつかぜ)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。

原文は「源氏物語・松風の巻」として美しく描かれている

自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。 大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。

 関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)

 出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
 自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存状態は極めて良好です。


 大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。

 旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。


 出品した「源氏物語」は松風(まつかぜ)の内容の要旨
「松風の巻」は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第18帖。二条東院が完成し、源氏の君は西の対に桐壺天皇の中宮・麗景殿の女御の妹君である花散里の姫君を移らせた。東の対には明石の君を迎えるつもりだったが、明石の君の父君の明石入道は源氏の君に文で「娘・明石の御方も住みなれたここを離れて、上洛することには不安を抱えています。」と伝えた。大堰川近くの山荘(母方の祖父・中務宮の別荘)を修理して娘をそこへ住まわせることに決めたという。ちょうど源氏の君が建てた嵯峨野の御堂も近くにあり、明石の御方は父入道を一人明石に残して姫君(明石の君)や母尼君(明石の尼君)と共に上京する。しかし源氏の君はなかなか大堰を訪れず、明石の御方は琴を爪弾き無聊を紛らわせていた。源氏の君は紫の上に気を遣いながらも、御堂の様子を見に行くとの口実でようやく大堰を来訪。明石の君と3年ぶりの再会を喜び合い、また初めて見る娘・明石の姫君の愛らしさに感嘆した。姫君を将来の后がねと考える源氏の君は、その出自の低さを補うためにも、一日も早く姫君を都へ迎えたいと考える。源氏の君から姫君を養女として育ててほしいと相談された紫の上は、元々子供好きなこともあり快く承諾するが、姫君と引き離される明石の御方の心を思いやって悩む源氏の君だった。


自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)

「松風(まつかぜ)」自筆原本の上部には、「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。 源氏物語「松風」の中に「いみじうなまめいてよしあり、たおやぎけるけはひ」とある。几帳の中に隠れている「明石の君の横顔は、みごとで優美な気品がにじんでいる」明石の君は地方の受領(ずりょう)の娘でそれが京に状況しのちにその娘が中宮になるという展開であり、その納得のために紫式部は楊貴妃と明石の君を源氏物語の話の展開をしていったという学説がある。紫式部は楊貴妃と明石の君を比較するのに、玄宗皇帝が楊貴妃となるのは二十二歳であり、明石の君も二十二歳である。楊貴妃と明石の君が同じ年齢は偶然ではなく物語の中で紫式部が正確に描写をしていたことをうかがい知ることができる紫式部が「松風」を書くに際し、白楽天の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。詳細な理由は下記説明欄に記載。 (自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載

《「源氏物語」松風(まつかぜ)の巻》
「松風」の巻は英文で「The Wind In the Pines」と表記されます。
《自筆上部の「松風(まつかぜ)」自筆原本の上部には、「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。

「額縁入自筆原本」

(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

「自筆原本」

自筆右下の印2つは、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。

自筆上部の「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。

《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》

自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)


自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載

(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。


《「源氏物語」松風(まつかぜ)の巻》
原文には「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。
この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。
この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。

《しの(忍)ふるみち(道)は》・・・・いつとなく、いろひつか(仕)う
まつる人なれは、つかは(遣)して、さるへきさまにこゝかし
このようい(用意)なとせさせ給けり。「あたりおかしうて、
うみ(海)つら(面)にかよ(通)ひたる所のさまになん侍ける」
ときこ(聞)ゆれは、「さやうのす(住)まゐに、よしなからすは
ありぬへし」とおほ(思)す。
つくらせたま(給)ふ御たう(堂)は、大かく(覚)し(寺)の
みなみ(南)にあたりて、たき(滝)との(殿)ゝ心はへなと、
おとらす、おもしろ(面白)きてら(寺)なり。これは川つら(面)に、
えもいはぬ松かけになに(何)のいたはりもなくた(建)てたる
しんてん(寝殿)のことそきたるさまも、をのつから、
山さと(里)のあはれをみ(見)せたり。うち(内)の
しつらひなとまて・・・・・《おほしよる》


(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。



(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。


《「源氏物語」松風(まつかぜ)の巻》

《明石の入道・娘・明石の君のために大堰の邸を造営》

《大臣(源氏の君)は、
(源氏の君)「人中へ出るのをいつもいやがっているのは、こういう心づもりがあったのか」
とはじめて合点がゆかれる。
(源氏の君)「たいした気のくばり方よ」
と、感心なさったのである。
 惟光朝臣(これみつのあそん)は、例の内緒事の筋は、》・・・・いつに限らず
お世話申しあげている人なので、大臣(源氏の君)は、これを
おさし向けになって、しかるべくここかしこの設けなどをおさせになるのだった。
帰ってきて、
(惟光朝臣)「その辺一帯に景色がよくて、明石の海辺に似通った眺めでございました」
と申しあげるので、
(源氏の君)「そうした住いであれば、きっと風情(ふぜい)がなくはあるまい」
とお思いになる。大臣(源氏の君)のお造りになっている御堂は大覚寺の
南にあたって、滝殿(たきどの)の趣向などはそれにも劣らず雅趣に富んだ寺である。
こちらは川に面していて、じつにみごとな松の木蔭に無造作に建ててある
寝殿の簡素な有様も、しぜんに山里のしみじみとした情趣を見せている。
大臣(源氏の君)は、内部の飾りなどまで・・・・・《お心づかいをなさる。》

現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)

備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。




(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。


《The Wind In the Pines(松風)》
"I was reminded a little of Akashi."
Nothing could be better.
The temple which Genji was putting up was to the south
of the Daikakuji, by a mountain cascade which rivaled
that of the Daikakuji itself.
The main hall of the Oi villa was simple and unpretentious,
almost like a farmhouse, in a grove of magnificent pines
beside the river.
Genji himself saw to all the furnishings.


英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)



(2)・自筆の「中国語訳」は次の通りです。


《航(松風)》
那个惟光朝臣,一向是所有秘密行径的照料都少他不得的人。
回也就派他到大堰河去,命令他用心理邸内各有的。
惟光回来道:“那地方景甚好,与明石浦海相似。”
源氏内大臣想:的地方,个人住倒很相宜。
源氏公子所建造的佛堂,位在嵯峨大寺之南,
面瀑布,趣之雅,不于大寺。
大堰的明石邸面河流,建造在一所美妙不可言的松林中。
其正殿朴素,却有山味。
内部装布置,均由源氏内大臣。


中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)


「松風の巻」原本の末尾(原本番号23-B)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印

左の写真が「源氏物語」松風の巻の末尾(原本番号23-B)の押印。
写真左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩主第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。
上部には、「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。
篆書体右の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)


自筆の疎明資料等は、下記の通りです。



(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。筆者は近衛関白政家公。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の写真は、桐壺の巻の奥付。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)


「自筆の画像断層(MRI)写真」


(出品した自筆の「断層画像写真」(松風の巻)MRI 18―4B
自筆下二つの印のうち下は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款


「源氏物語」「国宝・囲碁をする今上帝と薫の君」の資料

下記写真は、源氏の君の桂院における饗宴(屏風)






「天皇の曽祖父・大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」



1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。



大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品
商品説明(来歴) 大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。

漢詩文 原文上部には「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。この漢詩は白楽天の「文集」の中の有名な一節です。紫式部が「松風」を書くに際し、「白楽天・漢詩集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「松風の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「松風の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたことがわかる。

漢詩の落款の意味 原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。  特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。  「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。 「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。  落款の「讃」の元になるその原文の個所には、
「始是新承恩沢時」《始めてこれ、新たに恩沢を承(う)くるの時》という篆書印が押捺されている。この漢詩は漢の皇帝が楊貴妃にまみえたときの白楽天の有名な描写である。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。


自筆の希少価値について 自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。

断層(MRI)写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。

寸法 「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。

「源氏物語」の自筆について 1・筆跡の分析について
 国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。

2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。

3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。

4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている

HP 近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。 出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。

ツイッター「源氏物語の世界」 も合わせてご覧ください。


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