以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
### 第一章:令和の憂鬱と珊瑚の囁き 灰色のビル群が切り取る空は、水瀬汐里(みなせ しおり)の心と同じ色をしていた。デザイン事務所の窓から見える景色は、昨日と何も変わらない。ただ、汐里の世界だけが、音を立てて色褪せていくような感覚に苛まれていた。また、コンペに落ちた。これで何度目だろう。審査員からの講評はいつも同じ。「独創性に欠ける」「テーマへの理解が浅い」。その言葉が、鋭いガラスの破片のように胸に突き刺さる。 ジュエリーデザイナーになる。幼い頃からの、たったひとつの夢だった。キラキラと輝く宝石、滑らかな金属の曲線。それらを組み合わせて、誰かの人生に寄り添う小さな光を生み出す仕事。そのはずだったのに、現実はあまりにも厳しかった。才能の枯渇を突きつけられる毎日。情熱の炎は、冷たい現実の雨に打たれて、今にも消え入りそうに小さく揺らめいていた。 「もう、無理なのかな……」 誰もいない残業中のオフィスで、ぽつりと呟いた言葉が虚しく響く。夢を諦めるという選択肢が、じわりと現実味を帯びて目の前に迫ってくる。 その週末、汐里は実家に戻っていた。三ヶ月前に亡くなった祖母、志乃(しの)の遺品整理を手伝うためだ。優しくて、いつも穏やかな笑顔を浮かべていた祖母。汐里がデザインの道に進むことを、誰よりも応援してくれていた。 桐の箪笥の一番下の引き出しを開けた時、ふわりと白檀の香りがした。ビロードの古びた小箱が、静かにそこにあった。汐里は、その箱に見覚えがあった。幼い頃、祖母が時々取り出しては、慈しむように掌で撫でていたものだ。 そっと蓋を開ける。中には、柔らかな真綿に包まれて、淡い桜色の塊が横たわっていた。 それは、珊瑚の彫刻だった。 大きさは汐里の掌に収まるくらい。いくつかの花が寄り集まったような意匠で、その花びら一枚一枚が、まるで生きているかのように瑞々しい。色は均一なピンクではない。乳白色から、熟した桃のような濃い色まで、美しいグラデーションを描いている。光に透かすと、内側から淡い光を放っているようにさえ見えた。精緻で、温かみがあって、それでいてどこか切ない。見る者の心を揺さぶる不思議な力が、その珊瑚には宿っていた。 「五島彫り、っていうのよ。この珊瑚にはね、魂が宿っているの」 いつだったか、祖母がそう言って微笑んでいた顔を思い出す。子供だった汐里は、その言葉の意味がよく分からなかったけれど、祖母がこの珊瑚をとても大切にしていることだけは伝わってきた。 鑑別書も一緒に出てきた。そこには「天然珊瑚」「彫刻」「65.8×41.4mm」「29.2g」といった機械的な文字が並んでいる。だが、そんなスペックでは到底表しきれないものが、この彫刻にはあった。人の手の温もり。長い時間。そして、誰かの強い想い。 汐里は無意識に、その珊瑚のルースをそっと掌に握りしめた。ひんやりとしているのに、どこか温かい。滑らかな花びらの感触が、ささくれた心を優しく撫でるようだった。 「おばあちゃん……私、もうダメかもしれない」 堪えていた涙が、一筋頬を伝った。夢を追う苦しさ、才能への絶望、そして、一番の理解者だった祖母を失った寂しさ。全てがごちゃ混ぜになって、汐里の中で渦を巻いていた。 その夜、汐里は実家の自分の部屋で、どうしてもその珊瑚を手放すことができず、掌に握りしめたままベッドに入った。外は静かな雨が降っていた。雨音が、遠い昔の子守唄のように聞こえる。 珊瑚の彫刻が、心なしか脈打っているような気がした。じんわりと、汐里の体温を吸い取って、代わりに何か別の温もりを返してくる。それは懐かしいような、それでいて知らない温かさだった。 「魂が、宿っている……」 祖母の言葉が、再び脳裏に蘇る。もし本当にそうなら、この珊瑚の魂は、今、何を思っているのだろう。誰が、どんな想いを込めて、この花々を彫り上げたのだろう。 考えを巡らせるうちに、汐里の意識は次第に遠のいていった。雨音と、掌の中の確かな温もりに包まれて、深い、深い眠りの底へと沈んでいく。それは、いつもの眠りとは何かが違う、不思議な予感に満ちた微睡みだった。 ### 第二章:潮騒の記憶 目が覚めた時、汐里の耳に聞こえてきたのは、雨音ではなかった。 ──ザアァァ……ザアァァ…… 寄せては返す、波の音。そして、鼻腔をくすぐる磯の香り。潮の匂いが、あまりにも生々しい。ベッドのスプリングが軋む音も、カーテンの隙間から差し込む街灯の光もどこにもない。代わりに、ゴツゴツとした何かが背中に当たり、頬を撫でる風は湿り気を帯びていた。 汐里は、弾かれたように身を起こした。 目の前に広がっていたのは、見たこともない風景だった。白い砂浜と、エメラルドグリーンに輝く穏やかな海。背後には、鬱蒼とした緑の岬が迫っている。自分の部屋のベッドで眠ったはずなのに、なぜこんな場所にいるのか。 パニックになりかけた頭で、自分の服装を確認する。眠る時に着ていたスウェットの上下だ。場違いにも程がある。そして、右手には、あの桜色の珊瑚がまだ固く握りしめられていた。 「……夢?」 呟いて、自分の頬をつねってみる。鈍い痛みが走り、これが現実であることを容赦なく突きつけてきた。誘拐? 事故? あらゆる可能性が頭をよぎるが、どれも腑に落ちない。 呆然と立ち尽くす汐里の耳に、人の声が聞こえた。岬の方からだ。助けを求めようと、声のする方へ、砂に足を取られながら駆け出した。 茂みを抜けた先には、小さな入り江に面して、古びた木造の家が数軒建っていた。その一軒から、規則正しい音が聞こえてくる。何かを削るような、硬い音。好奇心に引かれて、汐里はそっとその家に近づいた。 開け放たれた戸口から中を覗くと、薄暗い土間に、一人の男が座っていた。年は二十代半ばだろうか。日に焼けた精悍な顔立ちに、結ばれた黒髪。着古した作務衣の袖をまくり上げ、一心不乱に手元の何かを彫っている。その真剣な眼差しは、まるで祈りを捧げているかのようだった。 男の手元にあるのは、赤い、宝石の原木。珊瑚だ。彼が手にしている道具は、汐里が資料でしか見たことのない、古い彫刻刀やヤスリだった。男の手の中で、無骨な珊瑚の枝が、少しずつ、命を吹き込まれていく。その光景に、汐里は息を呑んだ。 その時、男がふと顔を上げた。射るような鋭い視線が、まっすぐに汐里を捉える。 「……誰だ」 低く、張りのある声。汐里はびくりと肩を震わせた。見つかってしまった。 「あ、あの、すみません……道に迷ってしまって……」 しどろもどろに言い訳をする汐里を、男は訝しげな目で見つめている。特に、彼女の着ているスウェットに視線が注がれていた。 「妙な身なりだな。どこの者だ」 「えっと……東京、から……」 男の眉間の皺が、さらに深くなった。東京という地名は知っているようだが、汐里の存在そのものが理解できない、という顔をしている。 「ここは五島の福江だ。見たところ、旅の者でもないようだが」 五島。その地名に、汐里は心臓が跳ねるのを感じた。鑑別書に書かれていた地名ではない。まさか。そんな馬鹿なことがあるはずがない。 混乱する汐里をよそに、男は立ち上がった。背が高く、鍛えられた体つきをしている。彼は無言で汐里に近づき、その視線は、彼女が固く握りしめている右手に注がれた。 「……お前、それをどこで手に入れた」 声のトーンが、明らかに変わった。険しさの中に、焦りのような色が滲んでいる。汐里は咄嗟に珊瑚を背中に隠した。 「これは、祖母の形見です」 「祖母だと?」 男は信じられないという顔で汐里を見つめ、何かを確かめるように、もう一度、彼女の顔と、彼女が隠した手元を交互に見た。 その時、工房の奥から、鈴を転がすような可憐な声がした。 「龍之介さん、お昼をお持ちしました」 現れたのは、汐里と同い年くらいの、美しい娘だった。結い上げた黒髪に、可憐な椿の髪飾り。紺色の絣の着物が、その楚々とした佇まいによく似合っていた。彼女は汐里の姿を認めると、驚いたように少し目を見開いた。 「まあ、お客様ですか?」 「いや……」 龍之介と呼ばれた男は、言葉を濁した。娘は、龍之介と汐里の間のただならぬ空気を察したのか、少し不安そうな顔でお盆を置いた。 「私は、野々村 椿と申します。あなたは?」 「水瀬……汐里です」 椿、と名乗った娘は、汐里の奇妙な服装にも動じず、優しく微笑んだ。その笑顔に、汐里は少しだけ安堵する。 「汐里さん。遠くからいらしたのですか? お疲れでしょう。さあ、どうぞこちらへ」 椿に促され、汐里はなすがままに工房の上がり框に腰を下ろした。龍之介は、まだ納得のいかない顔で二人を見ていたが、椿に窘められるように促され、渋々といった体で汐里の向かいに座った。 出された麦茶を一口飲む。乾ききった喉に、冷たい液体が染み渡った。少しだけ、冷静さを取り戻すことができた。目の前の光景、人々の服装、言葉遣い、家の造り。全てが、汐里の知る現代日本のものとは異なっていた。 そして、龍之介の作業台の上に置かれた、彫りかけの珊瑚。それは、汐里が手にしている彫刻と、驚くほどよく似ていた。いや、同じものだ。まだ蕾の部分が多く、花びらの艶も出ていないが、紛れもなく、あの山茶花の彫刻の、制作途中の姿だった。 まさか、本当に。 汐里は、恐る恐る尋ねた。 「あの……失礼ですが、今は、何年ですか?」 その質問に、龍之介と椿は、きょとんとした顔で顔を見合わせた。 「何年、とは……。今は、大正十二年だが」 大正十二年。 その言葉は、雷鳴のように汐里の頭の中に響き渡った。 ここは、約百年も前の、過去の世界。 そして、目の前にいる無口な珊瑚職人・崎山龍之介こそが、この山茶花の彫刻を生み出した本人であり、椿という女性は、彼がその彫刻に込めた想いの相手に違いない。 汐里は、時を超えて、この物語が始まった、まさにその場所へと来てしまったのだ。自分の高祖父母とも知らずに。 ### 第三章:交錯する運命 自分がタイムスリップしたという、荒唐無稽な事実を認めざるを得なくなってから、数日が過ぎた。汐里は、龍之介と椿の厚意で、椿の実家である網元の野々村家に身を寄せることになっていた。「記憶を失くし、奇妙な身なりで浜に打ち上げられていた娘」という、椿が機転を利かせてでっち上げた設定で、周囲の人々もひとまずは納得してくれた。 龍之介は、汐里が持つ完成された珊瑚の彫刻と、汐里自身の存在を、まだ測りかねているようだった。彼は何度か汐里にその珊瑚を見せるよう迫ったが、汐里は頑なに拒んだ。未来の完成品を過去の作者に見せることの影響が、恐ろしかったからだ。歴史を変えてしまうかもしれない。もし、龍之介と椿の運命を少しでも狂わせてしまったら、自分の存在そのものが消えてしまうのではないか。その恐怖が、汐里を臆病にさせていた。 しかし、この時代で暮らすうち、汐里は二人の置かれた状況を少しずつ理解し始めていた。龍之介は、類稀なる才能を持つ珊瑚職人だが、貧しい家の生まれだった。一方、椿は島でも有数の網元の娘。二人は深く想い合っているが、その間には、あまりにも大きな身分の差が横たわっていた。 そして、二人の運命をさらに複雑にしている存在がいた。 黒岩剛史(くろいわ たけし)。 島の土地や利権を多く握る、地元の有力者だ。彼は椿に執心しており、野々村家に何度も縁談を持ち込んでは、断られていた。しかし、彼は諦めていなかった。むしろ、その執着は日に日に歪んだものへと変わっていった。 ある日、汐里が椿の家の手伝いをしていると、その黒岩が訪ねてきた。三十代くらいだが、年の割に酷薄そうな顔つきをした男だった。彼は椿の父親と何事か話し込んだ後、縁側で針仕事をしていた椿に、ねっとりとした視線を向けた。 「椿さん、いつまであんな職人のもとに通うつもりだ。お前のためを思って言っているんだ。身分違いの恋など、実るはずがない」 「私のことは、放っておいてください」 椿は、毅然とした態度で答えた。しかし、その声は微かに震えている。黒岩は、そんな椿の様子を楽しんでいるかのように、口元に卑劣な笑みを浮かべた。 「崎山の奴も、お前のような良いなずけがいながら、浜で拾った得体の知れない女を囲っているそうじゃないか。大した甲斐性だな」 黒岩の言葉は、明らかに汐里を指していた。侮辱的な物言いに、汐里はカッと頭に血が上ったが、椿がそっと汐里の手を握り、制した。 「汐里さんは、恩人です。あの方に、そのような言い方はやめてください」 「恩人、か。まあいい。だが、覚えておけ。お前は、いずれ俺のものになる」 捨て台詞を残して去っていく黒岩の後ろ姿を、汐里は拳を握りしめて見送った。あの男は、龍之介と椿の幸せを壊そうとしている。それが、はっきりと分かった。 黒岩の脅威は、予感だけに留まらなかった。数日後、龍之介が血相を変えて野々村家に駆け込んできた。 「黒岩の奴に、はめられた……!」 話を聞けば、こうだ。龍之介が作品の取引で町へ出向いた際、黒岩の息のかかった商人に騙され、偽の契約書にサインをさせられてしまったらしい。その結果、龍之介は身に覚えのない多額の借金を背負わされ、返済できなければ、工房と道具、そして制作中の全ての珊瑚を差し押さえる、という内容だった。その中には、もちろん、あの山茶花の彫刻も含まれていた。 「あの山茶花は……椿に、贈るために……」 龍之介は、悔しそうに唇を噛んだ。あれは、彼が椿への想いを託し、いつか求婚する時に渡そうと、心血を注いで彫り進めていた作品だったのだ。それを、黒岩は汚い手で奪い取ろうとしている。 椿の顔から、血の気が引いていくのが分かった。彼女は、これが自分と龍之介を引き裂くための、黒岩の卑劣な罠であることに気づいていた。 「私が……私があの人のところへ行けば……」 椿が、か細い声で呟いた。自分が黒岩の妻になれば、龍之介は助かるかもしれない。そんな自己犠牲の考えが、彼女の頭をよぎったのだ。 「馬鹿なことを言うな!」 龍之介が叫んだ。 「お前を差し出して助かるくらいなら、俺は職人を辞める!」 「でも……!」 言い争う二人を見て、汐里の胸は張り裂けそうだった。このままでは、歴史が悪い方へ変わってしまう。祖母の日記には、高祖父母が多くの困難を乗り越えて結ばれたと、断片的に記されていた。しかし、こんな絶望的な状況を、二人はどうやって乗り越えたのだろう。 見て見ぬふりをするか。それとも、介入するか。 汐里の中で、激しい葛藤が渦巻いた。未来人である自分が下手に動けば、事態はさらに悪化するかもしれない。最悪の場合、二人は結ばれず、自分は生まれてこないという結末だってあり得る。 怖い。でも、それ以上に、愛し合う二人が、あんな男の策略によって引き裂かれるのを見るのは耐えられなかった。 汐里は、ぎゅっと掌の中の珊瑚を握りしめた。完成された、美しい山茶花の彫刻。それは、二人の愛が実った「証」のはずだ。この珊瑚がここにある限り、未来はまだ確定している。ならば、自分が少しだけ背中を押してあげることは、許されるのではないか。 「この珊瑚にはね、魂が宿っているのよ」 祖母の優しい声が、心の中で響いた。そうだ。この珊瑚は、ただの石じゃない。龍之介と椿の、そして、それに連なる全ての子孫たちの、想いの結晶なんだ。 汐里は、顔を上げた。その瞳には、恐怖を振り払った、強い決意の色が宿っていた。 「私に、手伝わせてください」 龍之介と椿が、驚いたように汐里を見た。 「龍之介さんの珊瑚彫刻、手伝わせてください。借金を返せるだけの、もっと素晴らしいものを、一緒に作りましょう」 それは、未来を知る者としてではなく、同じ「ものづくり」を愛する人間としての、汐里の魂の叫びだった。 ### 第四章:未来からの贈り物 汐里の申し出を、龍之介は最初、訝しげに聞いていた。記憶喪失で素性も知れない娘に、神聖な仕事場を荒らされたくはない。そんな彼の職人としてのプライドが、警戒心を抱かせているのが分かった。 「あんたに何ができる。これは遊びじゃない」 「分かっています。でも、私、デザインを勉強していたんです。あなたの技術と、私のアイデアを合わせれば、きっと誰も見たことのないようなものが作れます」 汐里は、懐から鉛筆と、帳面の切れ端を取り出した。この時代に来てから、思考を整理するために椿に頼んで譲ってもらったものだ。彼女は、サラサラとスケッチを始めた。 描いたのは、現代のジュエリーデザインの知識を応用した、斬新な意匠だった。伝統的な五島彫りの写実的な美しさを活かしつつも、よりモダンで、アシンメトリーな構図。珊瑚の自然な形や色の流れを最大限に引き出すような、大胆なデザイン。龍之介が今まで作ってきたものとは、全く異なるアプローチだった。 「これは……」 龍之介は、汐里が描いた数枚のスケッチを見て、目を見張った。彼の技術では到底思いもよらない発想。しかし、同時に、そのデザインが持つ可能性の大きさに、職人としての血が騒ぐのを感じていた。 「どうすれば、こんな形を……」 「例えばこの部分は、あえて磨き上げずに、珊瑚の原木の質感を少し残すんです。そうすると、磨かれた部分との対比で、花びらの艶やかさがより際立ちます。それから、この枝のラインは、ただの支えじゃなくて、全体の動きを生み出す重要な要素として……」 汐里は、夢中で語った。コンペで何度も否定され、心の奥にしまい込んでいた情熱と知識が、堰を切ったように溢れ出してくる。それは、誰かに評価されるためではない。ただ純粋に、素晴らしいものを作りたい、そして、目の前の二人を助けたいという、ひたむきな想いから来る言葉だった。 その日から、龍之介の工房で、二人の奇妙な共同作業が始まった。 龍之介は、汐里のデザイン画を前に、唸りながら彫刻刀を握った。最初は戸惑っていた彼も、汐里の的確な助言と、何より彼女のデザインに対する深い理解力に、次第に信頼を寄せるようになっていった。汐里もまた、龍之介の神業のような技術に、日々驚かされていた。頭の中のイメージが、彼の腕によって、寸分の狂いもなく形になっていく。その様は、まるで魔法のようだった。 椿も、毎日二人のために食事を運び、甲斐甲斐しく世話を焼いた。三人の間には、いつしか同志のような、あるいは家族のような、温かい絆が生まれていた。 汐里の斬新なデザインと、龍之介の卓越した技術が融合して生まれた作品は、瞬く間に島の外の商人たちの間で評判となった。これまで五島彫りに興味を示さなかったような人々からも、注文が舞い込むようになる。借金返済の目処が、少しずつ見え始めていた。 だが、事態が好転すればするほど、黒岩の妨害は陰湿さを増していった。龍之介の使う道具が盗まれたり、納品するはずの作品が運搬中に壊されたりといった嫌がらせが続いた。しかし、龍之介と汐里、そして椿は、三人で力を合わせ、それらの困難を乗り越えていった。 そして、借金の返済期限が目前に迫った、嵐の夜。 黒岩は、ついに最終手段に打って出た。 工房で最後の追い込み作業をしていた龍之介と汐里は、突然、外が赤く染まっていることに気づいた。慌てて戸を開けると、工房の壁の一部から、炎が上がっていた。風に煽られた火の手は、あっという間に燃え広がろうとしている。 「黒岩の奴……!」 龍之介は、工房の中に保管してある完成間近の作品群を庇うように立ち塞がった。しかし、煙が工房に充満し、二人は激しく咳き込む。出口は炎に塞がれ、逃げ場はなかった。 絶望が二人を包み込もうとした、その時。汐里は、自分がいつも首から下げているお守り袋の中に、あるものを入れていたことを思い出した。それは、現代から持ってきた、小さなキーホルダー型のLEDライトだった。 「龍之介さん、濡れた手ぬぐいで口を覆って!」 汐里は叫びながら、LEDライトのスイッチを入れた。闇と煙の中で、一条の鋭い光が放たれる。 「この光についてきて! 工房の裏に、小さな窓があったはず!」 煙でほとんど視界が効かない中、LEDライトの強力な光だけが、唯一の道標となった。龍之介は、高価な珊瑚の彫刻が入った箱を必死で抱え、汐里の光を頼りに、壁を伝って進む。 そして、二人はついに、工房の裏手にある小さな窓にたどり着いた。龍之介が体当たりで窓枠を破壊し、汐里を先に外へ押し出す。続いて龍之介も、作品の箱を抱えたまま、燃え盛る工房から転がり出た。 二人が脱出した直後、工房の屋根が轟音と共に崩れ落ちた。あと数秒遅ければ、二人とも助からなかっただろう。 ずぶ濡れになりながら、呆然と燃え尽きていく工房を見つめる龍之介と汐里。そこへ、嵐の中を、椿が提灯を手に駆けつけてきた。二人の無事な姿を見て、彼女は泣きながらその場に崩れ落ちた。 夜が明け、嵐が去った後、放火の現場から、黒岩が使っていた煙管が見つかった。それが決定的な証拠となり、これまでの悪事も次々と明るみに出た黒岩は、町の役人に捕らえられた。 全てが終わったのだ。 朝日が、焼け落ちた工房の跡を照らしていた。龍之介の仕事場は失われた。しかし、彼の腕と、守り抜いた作品、そして、何よりも大切な人たちが、ここには残っていた。 龍之介は、汐里に向かって、深く、深く頭を下げた。 「汐里……あんたがいなければ、俺も、俺の作品も、椿も、全てを失っていた。あんたは、俺たちの命の恩人だ」 その言葉に、汐里は静かに首を振った。 「私じゃない。龍之介さんと、椿さんの、お互いを想う強い気持ちが、未来を切り開いたんです」 汐里の掌の中では、あの山茶花の彫刻が、朝日に照らされて、ひときわ温かく輝いているように見えた。 ### 第五章:ひたむきな愛の勝利 黒岩の脅威が去り、島には穏やかな日常が戻ってきた。龍之介は、焼け落ちた工房の跡地に、村の人々の助けを借りながら、新しい仕事場を建て始めた。多くのものを失ったが、彼の心は不思議なほど晴れやかだった。 そして、何よりも彼の心を占めていたのは、あの山茶花の彫刻を完成させることだった。火事の際に守り抜いたその彫刻は、もはや単なる作品ではなかった。椿への愛、汐里への感謝、そして、困難に打ち勝った証。その全ての想いを込めて、彼は最後の一彫りに魂を注いだ。 一方、椿は、これまでの出来事を全て父親に打ち明けた。龍之介への想い、黒岩の卑劣な罠、そして、龍之介が命懸けで彼女との未来を守ろうとしたこと。娘の固い決意と、龍之介の誠実な人柄を知った父親は、ついに二人の仲を認めることを決意した。長い間、二人を隔てていた身分の壁が、ついに取り払われた瞬間だった。 ある晴れた午後、龍之介は、完成した山茶花の彫刻を手に、椿の家を訪れた。汐里も、そっとその後ろからついていった。 縁側に座る椿の前に、龍之介は恭しく正座した。そして、桐の箱を静かに開き、中から現れた彫刻を椿の前に差し出した。 「椿。俺と、一緒になってほしい」 完成した山茶花の彫刻は、汐里が知るものよりも、さらに輝きを増していた。花びら一枚一枚が生命力に満ち、まるで甘い香りが漂ってくるかのようだ。それは、龍之介のひたむきな愛が、珊瑚という永遠の素材に刻み込まれた、奇跡の結晶だった。 椿の大きな瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。彼女は言葉もなく頷き、そっとその彫刻を両手で受け取った。 その光景を見届けた時、汐里の体が、ふわりと透け始めたのに気づいた。指先から、足元から、まるで陽炎のように、景色が透けて見える。 「汐里さん……!」 椿が、驚きの声を上げた。龍之介も、信じられないという顔で汐里を見ている。 汐里は、微笑んだ。自分の役目が終わったのだ。龍之介と椿の運命は、正しく、そして、より強く結ばれた。自分がここにいてはいけない。 「龍之介さん、椿さん。おめでとうございます」 声が、少しずつ遠くなっていく。視界が白んでいく。 「汐里! 待ってくれ!」 龍之介が何かを叫んでいる。彼は、懐から小さな彫刻刀を取り出すと、信じられない速さで、完成したばかりの山茶花の彫刻の裏に、何かを刻み始めた。 「あんたへの感謝の気持ちだ! これだけは、受け取ってくれ!」 しかし、彼の言葉が最後まで届く前に、汐里の意識は、白い光の中に完全に飲み込まれていった。最後に見たのは、涙を浮かべながらも、幸せそうに微笑み合う龍之介と椿の姿だった。 ありがとう。私の、大好きなおじいちゃん、おばあちゃん。 心の中でそう呟きながら、汐里は時空の彼方へと還っていった。 ### 第六章:時を超えたエピローグ ハッと目が覚めると、汐里は実家の自分の部屋のベッドにいた。窓の外からは、聞き慣れた都会の喧騒が聞こえてくる。まるで、長い長い夢を見ていたかのようだ。 しかし、それは夢ではなかった。 右手には、あの珊瑚の彫刻が、確かに握られていた。その温もりは、大正時代の五島で感じたものと、何も変わらない。 汐里は、ベッドから起き上がると、改めてその彫刻を光にかざして見た。相変わらず、息を呑むほどに美しい。だが、何かが違っていた。以前にはなかった、圧倒的なまでの生命力と、温かい幸福のオーラが、その彫刻全体から溢れ出しているように感じられる。 そして、汐里は気づいた。 彫刻の裏側。滑らかだったはずのその面に、小さな、しかし、確かな文字が刻まれていることに。 『汐里へ 感謝を込めて 龍之介』 その文字を見た瞬間、汐里の目から、涙が止めどなく溢れ出した。過去は変えられなかった。でも、感謝の想いは、百年という時を超えて、確かにここに届いていたのだ。龍之介は、汐里の存在を、未来からの贈り物を、歴史の一部として刻み込んでくれたのだ。 その時、部屋の隅にある本棚が、ふと気になった。祖母の遺品を整理した際、古いアルバムと一緒に置いた、一冊の日記帳。生前の祖母が、何かを書きつけていたものだ。何気なく手に取り、ページをめくってみる。 そこには、祖母・志乃の、美しい文字が並んでいた。そして、最終ページに、こう記されていた。 『可愛い汐里へ。もし、あなたがこの日記を読むことがあったなら、私の大好きなおばあちゃん、つまり、あなたの高祖母にあたる椿さんから代々伝わる、不思議な話を聞いてください。私たちの家系には、時を超えて現れる「恩人」の伝説があります。その人は、私たちの先祖が大きな困難に見舞われた時、未来からやってきて、助けてくれるのだと。そして、その恩人が現れる時、目印となるのが、この山茶花の珊瑚なのだそうです。汐里、あなたもいつか、自分の道に迷うことがあるかもしれません。でも、忘れないで。あなたには、時を超えてあなたを想い、支えてくれる、たくさんの愛があるということを。あなたのひたむきな想いは、きっと未来を切り開く力になります。』 日記を閉じ、汐里は、掌の中の珊瑚をそっと胸に当てた。龍之介の不器用な優しさ。椿の凛とした強さ。そして、祖母の深い愛情。全てが、この小さな珊瑚の中に息づいている。自分は、一人じゃなかった。こんなにも強い絆の上に、生かされているのだ。 翌日、汐里は勤めていたデザイン事務所に、辞表を提出した。そして、自分のアパートに戻ると、埃をかぶっていたデザイン画のファイルを開いた。もう、迷いはなかった。 数年後。 表参道の一角に、小さなジュエリーショップがオープンした。 店の名前は、「TSUBAKI」。 ショーケースの中央には、ひときわ美しいペンダントが飾られていた。あの山茶花の珊瑚をモチーフに、現代的な感性でリデザインされたものだ。その傍らには、一枚のカードが添えられている。 『このジュエリーは、百年前に生きた一人の職人の、ひたむ-きな愛の物語から生まれました。時を超えて受け継がれる想いが、あなたの毎日を、ささやかに照らす光となりますように』 店に立つ汐里の表情は、自信と喜びに満ち溢れていた。彼女が生み出すジュエリーは、ただ美しいだけではない。一つ一つに、時を超えた愛と絆の物語が込められ、多くの人々の心を温かく照らしていくのだった。 汐里は、時々、店の窓から空を見上げる。灰色のビル群が切り取る空は、もう、彼女の心と同じ色ではなかった。そこには、どこまでも続く、希望に満ちた青空が広がっていた。そして、掌の中にはいつも、あの桜色の珊瑚の温もりを感じているのだった。