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F2763 関屋四郎 畢生純金天女香炉【天女散花】人間国宝 彫金至芸 共箱 雲上人の魂に触れる 至高の物語 490.2G
F2763 関屋四郎 畢生純金天女香炉【天女散花】人間国宝 彫金至芸 共箱 雲上人の魂に触れる 至高の物語 490.2G [浏览原始页面]
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以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
雲上人、関屋四郎の魂に触れる 純金天女香炉、至高の物語
「…ふぅむ、今日のところは、ちと期待外れじゃったかのう」
わしは、馴染みの古美術商「集古庵」の主人、源兵衛の淹れた玉露の最後の一滴を名残惜しそうに啜り、紫檀の盆に置かれた白磁の小さな湯呑を弄びながら、独りごちた。今日は朝からどうにも虫の居所が悪く、何かこう、魂を揺さぶるような「美」に触れねば、どうにも収まりがつかぬ気分じゃったのだ。日頃からわしの我儘に付き合わされておる源兵衛は、心得たもので、いくつかの品を見せてくれたのだが、どうにも食指が動かぬ。高麗の青磁、李朝の白磁、唐津のぐい呑み…どれも悪くはない。悪くはないが、今のわしの渇望を満たすには、何かが足りぬのじゃ。
「先生、そう仰らず。まだ奥に、とっておきが一つ…ただ、これは先生のお眼鏡に適うかどうか…何しろ、ちと毛色の変わったものでございますれば」
源兵衛は、いつもながらの人の好さそうな笑顔の奥に、何か含むような光を宿しておる。この男の「とっておき」という言葉には、何度裏切られ、そして何度度肝を抜かれたことか。期待と警戒がない交ぜになった複雑な心境で、わしは無言で顎をしゃくって先を促した。
やがて、源兵衛が店の奥から、まるで赤子でも抱くかのように、恭しく運んできたのは、一つの桐箱じゃった。年月を経て飴色に変色したその桐箱は、それ自体が既に静謐なオーラを放っておったが、問題はその中身じゃ。箱の蓋には、何の変哲もない墨書。しかし、その筆致には、どこか尋常ならざる気配が漂う。
「先生、こちらでございます」
源兵衛が、わしの前にそっと箱を置く。紐を解き、蓋を持ち上げるその所作は、まるで神事のようじゃ。そして、現れたのは…
「…っ!」
声にならない声が、わしの喉から漏れた。そこには、まるで暗闇の中に突如として現れた満月のごとく、あるいは、地底深く眠っていた太陽の欠片が今まさに目覚めたかのように、圧倒的な黄金の輝きが凝縮されて鎮座ましましていた。それは、紛れもなく香炉であった。しかし、ただの香炉ではない。
わしは、北大路魯山人。美食家であり、陶芸家であり、書家であり、漆芸家であり、まあ、世間では何でも屋のうるさ型とでも思われておるじゃろう。だが、自負しておる。わしの眼は、ごまかしの利かぬ「真贋の秤」じゃと。そして今、この秤が、激しく一方に傾いておるのを、わしは確かに感じておった。
素材は、純金。その輝きは、鍍金(めっき)のような薄っぺらいものではない。内側から湧き上がってくるような、深く、重く、そしてどこまでも高貴な光じゃ。そして、その蓋。ああ、その蓋に彫り込まれた意匠を見た瞬間、わしの心臓は鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。そこにいたのは、天女じゃ。天衣をひるがえし、細い笛を奏でながら、まさに天から舞い降りてきたかのような、神々しいまでの天女の姿じゃった。
「これは…関屋…四郎…か?」
かすれた声で、わしは呟いた。源兵衛は、こくりと頷く。
「御意にございます。人間国宝、関屋四郎先生の…おそらくは、畢生の大作かと」
関屋四郎。その名を聞いて、わしの脳裏には、いくつかの作品が鮮やかに蘇ってきた。宮内庁に買い上げられたという、あの端正にして気品溢れる花器。あるいは、海外のコレクターを唸らせたという、繊細極まる銀の置物。彼は、明治41年(1908年)に生まれ、若くして彫金の才能を開花させ、戦前より帝展で活躍。戦後は日展、日本伝統工芸展を舞台に、その卓越した技術と芸術性で他の追随を許さなかった。そして昭和52年(1977年)、ついに彫金の分野で重要無形文化財保持者、すなわち人間国宝に認定された、正真正銘の巨匠じゃ。日本人史上、最高の彫金スキルを持った人物、と称する者も少なくない。その言葉は、決して誇張ではあるまい。
この香炉は、その関屋四郎が、おそらくは晩年近くに、自らの持てる技術、知識、そして魂の全てを注ぎ込んで創り上げたものに違いなかった。そうでなければ、この尋常ならざる気韻、神懸かり的な技巧は説明がつかぬ。これは、もはや人間の技を超えている。「鬼斧神工(きふしんこう)」とは、まさにこのことじゃろう。
「…見事、と言うほかあるまい」
わしは、ようやく言葉を紡ぎ出した。それは、心の底からの賛嘆じゃった。この香炉は、単なる美術品ではない。関屋四郎という稀代の職人が、その命の炎を燃やし、魂を削り、美の神髄を追い求めた末に辿り着いた、一つの極点なのじゃ。
源兵衛に促され、白手袋をはめ、恐る恐るその香炉を手に取った。ずっしりとした重み。これが純金か。古来、王侯貴族や権力者たちが渇望し、時には血で血を洗う争いの原因にさえなった、魔性の輝き。しかし、この香炉から感じるのは、そのような欲望の匂いではない。むしろ、清冽なまでの精神性じゃ。
香炉の胴は、豊満にして端正な丸みを帯び、「鼎(かなえ)」を思わせる三つの足が、それを安定して支えておる。その表面には、微細ながらも力強い槌目(つちめ)の跡が一面に残されておる。これは、単なる装飾ではない。金属を鍛え、絞め、形作っていく過程で必然的に生まれる、手仕事の証。この槌目の一つ一つが、純金の放つ光を複雑に反射させ、まるで水面がきらめくかのような、あるいは絹の織物が光沢を放つかのような、深みと奥行きを与えておるのじゃ。機械仕事では、決してこの味わいは出せぬ。指先でそっと撫でると、その微細な凹凸が、まるで作者の指紋に触れるかのような錯覚さえ覚える。
そして、蓋じゃ。ああ、この蓋こそが、この香炉の魂であり、関屋四郎の芸術の真骨頂であろう。直径にして僅か数寸の円盤の上に、透かし彫りで見事に表現された天女。彼女は、横笛を唇に当て、優雅なS字を描きながら舞い踊っておる。その表情は、穏やかでありながら、どこか遠くを見つめているかのようで、神秘的な雰囲気を湛えておる。流れるような髪の毛の一筋一筋、天衣の繊細な襞(ひだ)の表現、しなやかな指先の関節に至るまで、寸分の破綻もない。これはもはや彫金ではない。金というキャンバスに、鏨(たがね)という筆を用いて描かれた、三次元の絵画じゃ。
天女の周囲には、瑞雲(ずいうん)とも、あるいは彼女が奏でる音楽が形を成したものとも見える、流麗な曲線模様が透かし彫りで配されておる。これらの透かしは、単に装飾的な意味合いだけでなく、香炉としての機能、つまり香煙を効果的に外に逃がすための役割も担っておる。美と用が見事に融合した、これぞ工芸の理想形じゃ。
「天女散花(てんにょさんげ)」という言葉がある。仏が説法をする際に、天女が天から美しい花を降らせてその場を荘厳し、祝福するという、仏教経典に見られる有名な場面じゃ。この香炉の天女を見ていると、まさにその光景が眼前に広がるかのようじゃ。あるいは、この天女自身が、芳しい香りを纏って、天上界からこの地上へと舞い降りてきたのかもしれぬ。その優美な姿態、計算され尽くした構図、そして何よりも、硬質な金属であるはずの金に、まるで生きているかのような生命感と柔らかな質感を吹き込んだ関屋の技量には、ただただ脱帽するしかない。
関屋四郎という男は、一体どのような人物であったのか。寡聞にして、わしは彼と直接の面識はない。しかし、彼の作品を通じて、その人となりを想像することはできる。おそらくは、非常に寡黙で、妥協を許さぬ厳格な人物であったろう。そして、自らの仕事に対して、どこまでも誠実で、求道的であったに違いない。でなければ、このような神懸かり的な作品を生み出すことは不可能じゃ。
純金という素材は、その輝き故に魅力的ではあるが、工芸の素材としては極めて扱いにくい。柔らかく、粘りがあるため、細密な加工には高度な技術と、気の遠くなるような忍耐力、そして集中力が要求される。僅かな力の入れ具合の差で、作品は歪み、あるいは傷ついてしまう。関屋四郎は、この気難しい純金という素材を、まるで自分の手足のごとく自在に操り、このような生命感あふれる天女を顕現させたのじゃ。これは、まさに彼の長年の修練と、天賦の才とが奇跡的に融合した結果であろう。彼は、この作品を制作するにあたり、どれほどの時間を費やし、どれほどの精神を集中させたのであろうか。「命を削って製作した」という言葉は、決して文学的な比喩ではない。それは、この作品が放つオーラから、ひしひしと伝わってくる偽らざる実感なのじゃ。
わしは、この香炉を眺めながら、どんな香を焚けば、この天女は最も喜ぶであろうか、と思いを巡らせた。ありきたりの白檀(びゃくだん)や沈香(じんこう)では、この天女の気高さにはそぐわぬ気がする。やはり、香木の王者たる伽羅(きゃら)であろうか。それも、ベトナムの限られた地域でしか産出されない、緑油伽羅(りょくゆきゃら)や黄熟香(おうじゅくこう)といった、最上級のもの。あるいは、それらの香木を細かく砕き、秘伝の製法で練り上げた、この香炉のためだけの特別な練香(ねりこう)が良いかもしれぬ。
想像してみるがいい。静寂に包まれた茶室、あるいは月明かりだけが差し込む書斎。この純金の香炉に、一かけらの伽羅をそっと置く。炭火の熱がゆっくりと香木に伝わり、やがて、えもいわれぬ芳香が立ち上り始める。その香りは、決して強く主張するのではなく、空間全体を清浄な気で満たし、心を鎮めてくれる。そして、透かし彫りの隙間から、細く白い煙がゆらゆらと立ち上り、天女の姿を霞のように包み込む。その様は、まるで天女が香煙を纏って踊っているかのようじゃ。そのような空間で、この天女の舞を静かに眺める。それは、まさに天上の遊楽、この世のものとは思えぬほどの贅沢ではなかろうか。
このような香炉を前にすると、わしは決まって、それに合わせるべき「食」のことを考えてしまう。これはもはや業病のようなものじゃが、美と食は、わしの中では分かちがたく結びついておるのじゃ。この清らかで気高い天女の香炉には、やはり、それに相応しい清澄な味わいの料理が似合うであろうな。
春ならば、まずは「白魚の卵とじ」じゃ。霞網で獲れたばかりの、透き通るような白魚。それを、極上の出汁と、とろりとした半熟の卵で優しくとじる。白魚のほのかな苦みと甘み、卵の滋味、そして出汁の香りが渾然一体となった、春の儚さを凝縮したような一品。器は、古染付の小鉢が良い。藍の絵付けが、白魚の白さを引き立てるじゃろう。香は、伽羅の中でも、やや甘みのある「真南蛮(まなばん)」あたりが良いかもしれぬ。春霞のような優しい香りが、料理の繊細さを損なわずに寄り添うてくれる。
夏。京都の夏は蒸し暑いが、それを忘れさせてくれるような涼味が必要じゃ。ならば、「賀茂茄子の冷やし煮浸し」と、「鱧(はも)の焼霜造り」じゃな。賀茂茄子は、皮を剥いて大きく切り、油で揚げてから冷たい出汁に浸す。とろりとした食感と、じゅわっと染み出る出汁の旨みがたまらぬ。鱧は、骨切りを完璧に施し、皮目をさっと炙って氷水で締める。香ばしい皮と、淡白ながらも奥深い身の味わいを、梅肉醤油か、あるいは酢橘(すだち)を絞った辛子酢味噌でいただく。これには、キリリと冷えた辛口の純米吟醸が欲しくなる。酒器は、薄手の切子のグラスが良い。涼感を呼ぶ。香は、爽やかで清涼感のある「羅国(らこく)」、あるいは上質の「沈香」が良い。夏の暑熱を払い、心身を浄化してくれるような香りが、これらの料理と響き合うじゃろう。
秋。実りの秋、味覚の秋じゃ。やはり王者は「松茸」であろう。土瓶蒸しも良いが、この香炉には、もっとストイックなものが似合う。「松茸の炭火焼き」じゃ。笠が開くか開かぬかの、香りの良い松茸を選び、炭火でじっくりと炙る。醤油を数滴垂らすだけで良い。あとは、松茸自身の持つ、あのえもいわれぬ香りと食感を堪能する。もう一品は、「子持ち鮎の塩焼き」。腹に卵をたっぷりと抱えた落ち鮎を、化粧塩をして、これまた炭火でじっくりと焼き上げる。蓼酢(たでず)も良いが、わしはそのままかぶりつくのが好きじゃ。鮎のはらわたのほろ苦さと、卵の濃厚な味わいが、秋の深まりを感じさせる。器は、備前の緋襷(ひだすき)の大皿に、豪快に盛り付けたい。香は、少し落ち着いた、深みのある「佐曽羅(さそら)」が良いであろう。松茸や鮎の香りと競い合うのではなく、互いを引き立て合い、秋の夜長の静謐な雰囲気を醸し出すような香りが理想じゃ。
そして冬。寒さが厳しくなるほどに、温かいものが恋しくなる。「海老芋と棒鱈の炊き合わせ」。京野菜の代表格である海老芋は、きめ細かく粘りがあり、煮崩れしにくい。棒鱈は、時間をかけて丁寧に戻し、海老芋と共に、昆布と鰹の出汁でじっくりと煮含める。それぞれの素材の旨みが溶け合った煮汁は、それだけでご馳走じゃ。もう一つは、「蕪蒸し(かぶらむし)」。すりおろした聖護院蕪(しょうごいんかぶら)と卵白を混ぜ、中に甘鯛(ぐじ)や銀杏、百合根などを入れて蒸し上げる。熱々の蕪蒸しに、銀餡(ぎんあん)をかけ、おろし生姜を天盛りにする。体の芯から温まる、冬ならではの優しい味わいじゃ。器は、温かみのある織部や黄瀬戸の深鉢がよろしかろう。香は、温かく、心を落ち着かせるような、甘みのある「寸門多羅(すもんだら)」、あるいは上質の「白檀」が良いかもしれぬ。冷え切った体を内側から温め、安らぎを与えてくれるような香りが、冬の夜の宴を豊かにしてくれるはずじゃ。
酒は、どうであろうか。このような気品のある香炉と、繊細な味わいの料理には、やはり日本酒が一番じゃろう。それも、大吟醸のような華やかで香りの高いものではなく、米の旨みがしっかりと感じられ、料理の邪魔をしない、穏やかな純米の吟醸酒が良い。例えば、伏見の古今の銘酒「玉乃光」の「備前雄町」純米大吟醸あたりは、米のふくよかな旨みと、すっきりとした後口が、このような料理には合うておる。あるいは、灘の「菊正宗」の嘉宝蔵雅(がほうぐらみやび)のような、伝統的な生(きもと)造りの酒も、その奥深い味わいが、香炉の持つ歴史の重みと響き合うかもしれぬ。それも、人肌燗(ひとはだかん)からぬる燗程度に温めて、小さな盃でゆっくりと味わいたいものじゃ。酒器は、わしが轆轤(ろくろ)を引いた、土味を生かした伊賀のぐい呑みか、あるいは唐津の絵唐津の盃が良いかのう。
ふと我に返ると、わしは古美術商の主人の前で、うっとりと夢想に耽っておった。源兵衛は、そんなわしの様子を、いつものように心得たようにニコニコと眺めておる。この男は、わしのこんな奇癖をよく理解しておる。
「先生、この香炉には、勿論、共箱もございます」
そう言って、源兵衛が指し示したのは、香炉が入っていた桐箱のことじゃ。箱の蓋裏には、墨痕鮮やかな、しかしどこか飄々とした趣のある文字で「純金 天女香炉」と書かれ、その横には「四郎」という署名と、朱の角印がくっきりと押されておる。これぞ、作者自身がこの作品を真作と認め、世に送り出した証。共箱の存在は、作品の真贋を証明し、その来歴を物語り、そしてその価値を一層高めるものじゃ。この箱書きの筆致からも、関屋四郎という人物の、飾らない、しかし芯の通った人柄が偲ばれるようじゃ。
しかし、この香炉の圧倒的な存在感、神々しいまでの輝きと技巧の前では、この立派な共箱すら、もはや「おまけ」のように感じられてしまう。いや、それは断じて共箱を軽んじているわけではない。共箱は作品を護り、その出自を保証し、後世へと伝えるための重要な役割を担うものじゃ。おまけなどと軽々しく言うべきではないことは重々承知しておる。だが、この香炉本体の持つ力が、あまりにも強大すぎるのじゃ。それは、主役の輝きがあまりに眩しすぎて、脇役が霞んでしまうようなものじゃ。
関屋四郎は、この香炉をどのような思いで製作したのであろうか。人間国宝という頂点を極めた後も、なお飽くなき探求心を燃やし続け、自らの技の限界に挑み続けた孤高の彫金家。彼の脳裏には、どのような天女の姿が浮かんでいたのであろうか。それは、古典的な仏画に描かれるような定型的な天女ではなく、もっと自由で、生命力に溢れ、現代にも通じる普遍的な美しさを備えた、彼自身の理想の天女像であったのかもしれぬ。そして、この香炉が、どのような人の手に渡り、どのような香を焚かれ、どのように愛でられることを願っていたのであろうか。
この香炉は、単に美しいだけではない。それは、日本の伝統工芸の粋を集めたものであり、日本の美意識の精華でもある。そして何よりも、関屋四郎という一人の人間の、美に対する執念とも言えるほどの探求心と、物作りにかける純粋な情熱の、揺るぎない証なのじゃ。このような作品を前にすると、わしはいつも、作者の魂と直接対話しているような感覚に陥る。
このような至宝は、美術館のガラスケースの中に収められ、多くの人々の目に触れるべきものかもしれぬ。確かに、それも一つのあり方じゃろう。しかし、わしは思う。香炉というものは、やはり実際に使われてこそ、その真価を完全に発揮するのではないかと。香を焚き、その煙が天女を優しく包み込み、芳香が空間を満たす。その時初めて、この香炉は作り手の意図した通りに「完成」するのじゃ。それは、音楽家が作曲した楽譜が、演奏家によって音として奏でられて初めて完成するのと同じことじゃ。
この香炉を手にする者は、計り知れないほどの幸運の持ち主であると言わねばなるまい。それは、単に高価な美術品を所有するという物質的な満足を超えて、日本の文化遺産の一部を受け継ぎ、守り育てていくという精神的な喜びと責任を伴うものだからじゃ。この香炉を日々眺め、時折香を焚き、その美しさに触れるたびに、所有者の心は豊かになり、感性は磨かれ、日々の喧騒や俗事から解放されるひとときを得られるであろう。
わしは、この香炉が、真にその価値を理解し、心から愛しみ、そして大切にしてくれる人の元へ嫁ぐことを願ってやまない。それは、わしのような偏屈で独りよがりな爺のところではなく、もっと多くの人々に、この美しさを共有できるような、そんな懐の深い、そして審美眼を持った人物の元へ行くのが相応しいのかもしれぬな。
このF2763という、無粋な管理番号が付けられた、関屋四郎作、純金天女香炉。これは、まさに雲の上にいるような天人が、ふとした気まぐれで地上に舞い降りてきたかのような、あるいは、我々のような俗世の人間を、一瞬にして雲上の清浄な世界へと誘うかのような、そんな奇跡的な逸品じゃ。
「雲上人(うんじょうびと)」とは、元々、宮中に仕える殿上人の中でも、特に高位の貴族を指す言葉じゃが、この香炉の醸し出す気高さ、そして作者である関屋四郎が到達したであろう芸術的境地を思うと、まさにこの言葉が相応しいように思える。彼は、彫金という技の道において、まさに雲の上の存在であった。そして、彼が生み出したこの天女もまた、雲の上から舞い降りてきたかのような、一点の曇りもない、清浄無垢な美しさを湛えておるのじゃ。
この香炉を前にして、わしはしばし時が経つのを忘れた。それは、美との静かで濃密な対話の時間じゃった。関屋四郎の魂が、この小さな黄金の器の中に凝縮され、今もなお、静かに、しかし力強く呼吸しているかのようじゃった。彼の息遣い、彼の眼差し、彼の指先の感触までもが、この香炉を通じて伝わってくるような気がした。
日本の彫金技術は、世界に誇るべき、実に奥深い伝統を持っておる。その歴史は古く、弥生時代の銅鐸の文様や、古墳時代の馬具、刀剣の装飾、あるいは金製の耳飾りなどに、既にその萌芽を見ることができる。飛鳥・奈良時代には、仏教伝来と共に大陸からの技術が導入され、法隆寺の玉虫厨子や正倉院宝物に見られるような、驚くほど精緻な金工品が製作された。平安時代には、和様の優美な文化の中で、毛彫りや蹴彫りといった日本独自の技法が洗練され、鏡や装身具、仏具などに用いられた。
鎌倉時代に入ると、武士の台頭と共に、甲冑や刀装具の製作が盛んになり、質実剛健にして力強い彫金が発展した。室町時代には、後藤家の彫金が足利将軍家の庇護を受け、その後の刀装彫金の主流となっていった。そして、江戸時代。泰平の世が続き、町人文化が花開くと、刀装具は実用的な武具としてだけでなく、洒落や粋を凝らした美術品としての性格を強めていく。印籠や根付、煙管(きせる)といった細密工芸品にも、驚くべき彫金技術が駆使された。この時代に、日本の彫金技術は一つの頂点を極めたと言っても過言ではあるまい。
関屋四郎は、そのような日本の彫金の輝かしい伝統と、幾多の名工たちが築き上げてきた高度な技術体系を、真正面から受け継いだ上で、さらにそれを現代的な感性で昇華させた、稀有な才能の持ち主じゃった。彼の作品には、古来の伝統技法に対する深い理解と敬意が常に感じられる。しかし、決して古臭さを感じさせることはない。むしろ、そこには常に新鮮な驚きと、時代を超えた普遍的な美意識が貫かれておる。この天女香炉もまた、古典的な天女というモチーフを採用しながらも、その表現はどこかモダンで、洗練されており、現代人の心にも強く訴えかける力を持っておるではないか。
この香炉を製作するにあたり、関屋四郎はどれほどの時間と労力、そして精神力を注ぎ込んだのであろうか。純金という、それ自体が特別な価値を持つ素材を前に、彼はまず、どのような天女をこの世に顕現させるべきか、深く思索を重ねたはずじゃ。それは、単なるデザイン上の問題ではなく、彼自身の美意識、宗教観、あるいは人生観といったものまでが投影される、極めて内省的な作業であったろう。
そして、その構想が固まると、今度はそれを三次元の立体として、しかも透かし彫りという極めて難易度の高い技術を駆使して、寸分の狂いもなく実現していくために、まさに気の遠くなるような、緻密で根気のいる作業に取り組んだに違いない。
彫金に用いられる鏨(たがね)の種類は、数百にも及ぶと言われる。線の太さ、深さ、形状によって、それぞれ異なる鏨を使い分け、それを小さな槌(つち)で叩いて金属を彫り進めていく。透かし彫りの場合は、まず金属板に下絵を写し、糸鋸(いとのこ)で不要な部分を切り抜いていく。この糸鋸の作業だけでも、熟練の技が要求される。純金のような柔らかい金属は、特に扱いが難しく、少しでも力を入れすぎれば歪み、慎重すぎれば作業が進まない。
そして、切り抜かれた部分の縁を、様々な形状の鏨で丹念に仕上げ、表面には毛彫り(けぼり)と呼ばれる、髪の毛のように細い線を無数に刻み込むことで、天女の衣の質感や、髪の毛の柔らかな流れを表現していく。この毛彫りの一本一本が、天女に生命を吹き込む。それは、まさに息を殺し、全神経を指先に集中させなければ不可能な作業じゃ。僅か一瞬の気の緩みが、それまでの全ての努力を水泡に帰しかねない。そのような極度の緊張感の中で、彼は来る日も来る日も、この小さな天女と向き合い続けたのであろう。それは、もはや仕事というよりも、一種の修行、あるいは祈りにも似た行為であったのかもしれぬ。
この香炉は、ただそこにあるだけで、周囲の空間の質を変えてしまう力を持っておる。それは、真の芸術作品だけが持つオーラ、あるいは「気韻」というものじゃろう。書斎に置けば、そこが思索を深めるための特別な空間になる。茶室に置けば、一期一会の茶事をより荘厳なものにする。寝室に置けば、安らかな眠りへと誘う守り神となるかもしれぬ。香を焚けば、その場所は日常から切り離された聖域となり、心を浄化し、精神を高揚させる。そのような力を、この小さな純金の香炉は秘めておるのじゃ。
わしは、この香炉を手にした者が、どのような人生を送り、この香炉とどのような関係を築いていくのか、少しばかり興味がある。この香炉と共に過ごす時間は、きっとその人の感性を磨き、美意識を高め、人間としての深みを増してくれるであろう。そして、いつの日か、この香炉はまた次の世代の、美を愛する者の手へと受け継がれていく。そうやって、美は時代を超え、人の手を渡りながら、永遠に生き続けるのじゃ。
さて、源兵衛よ。この至宝、わしが独り占めするのは、あまりにもったいない。というよりも、今のわしの財力では、到底これを手元に置くことは叶わぬ相談じゃ。この美しさを、この感動を、もっと多くの人々に知ってもらうべきじゃ。この香炉は、わしのような偏屈な爺のコレクションケースの片隅で埃を被っているよりも、もっと華やかな舞台で、多くの人々の賞賛を浴びるべき運命を持っておるように思える。
「先生、まさか…」
源兵衛は、わしの言葉の真意を測りかねて、戸惑ったような顔をしておる。
「うむ。この天女様には、もっと広い世界で、多くの人々を魅了してほしいからのう。そして、関屋四郎という偉大な職人の名と、彼が到達した驚嘆すべき技を、後世に、いや世界に伝えていくためにもな。という、現代の市場(いちば)に出してみるが良い。きっと、この香炉の価値を真に理解し、心の底から熱望する者が、海の向こうからでも現れるはずじゃ」
「しかし、先生…これは、まさに国宝級の…」
「だから良いのじゃ。国宝級のものが、個人の手によって、国境を越えて愛される。それもまた、文化の新しいあり方ではなかろうか。美術館に死蔵されるよりも、生きた形で愛され、使われる方が、作り手も本望であろうよ」
この香炉が、どのような人の手に渡るのか。それは、わしにもわからぬ。それは、まさに縁としか言いようがない。しかし、一つだけ確かなことがある。それは、この香炉を手にした者は、計り知れないほどの幸運と、崇高なまでの美的な喜びを、その手にすることができるということじゃ。
共箱は、この香炉の価値を揺るぎないものにする、重要な付属品じゃ。その箱書き、印章、桐材の経年変化、それら全てが、この香炉の来歴を物語る。しかし、やはりこの香炉本体の持つ圧倒的な力の前では、言葉は悪いが、「おまけ」と言いたくなる気持ちも、あながち理解できぬわけではない。それは、本体があまりにも素晴らしすぎるからこその、逆説的な賛辞なのじゃ。この共箱も含めて、全てが関屋四郎の作品世界を構成する、不可分の一部なのじゃからな。
諸君、もし、そなたが真の美を求め、日々の生活に潤いと感動を求めているのなら、この千載一遇の機会を逃してはならぬぞ。人間国宝・関屋四郎が、その全霊を傾け、持てる技術の全てを注ぎ込み、そしておそらくは自らの命の一部をも溶かし込んで作り上げた、純金天女香炉。その黄金の輝きは、そなたの人生そのものをも、明るく照らし出すであろう。
この香炉から立ち上るであろう、えもいわれぬ伽羅の香りを想像してみるがいい。そして、その香りに包まれながら、黄金の天女が優雅に舞う姿を、静かに眺めることを。それは、まさに至福のひととき。日々の仕事の疲れや、人間関係の悩みなど、どこかへ雲散霧消してしまうであろう。これぞ「画竜点睛(がりょうてんせい)」、この香炉がそなたの生活に最後の仕上げを施し、全てを完璧なものにするのじゃ。
わしは、この香炉が、良き主を得て、末永く、そして深く愛され、大切にされることを、心から願っておる。そして、願わくば、その新たな主が、時折、この香炉を見出した、北大路魯山人という偏屈な爺のことを、ふと思い出してくれたら、それもまた一興じゃな。
「さあ、源兵衛。この天女様を、世に送り出してやろうではないか。彼女の新たな舞の舞台を、我々で見つけてやろうぞ。そして、その晴れ姿を、遠くからでも良い、そっと見守ろうではないか」
わしはそう言うと、名残惜しそうに、しかしどこか晴れやかな気持ちで、もう一度だけ、その黄金の天女に目をやった。彼女は、相変わらず穏やかな、そして全てを見透かすかのような微笑みを浮かべ、わしを見つめ返しているかのようじゃった。まるで、「わかっております。私の行くべきところへ参りましょう」とでも語りかけてくるかのように。
この一品は、美術品であり、工芸品であり、そして魂の器でもある。関屋四郎の不屈の情熱、日本の伝統が育んだ美意識、そして純金という永遠の輝き。そのすべてが、この小さな香炉の中に、奇跡的なバランスで凝縮されておる。これほどのものが、今、ここにあるという奇跡。その奇跡を、そなた自身のものにするチャンスが、目の前にあるのじゃ。
入札するという行為は、単なる金銭の交換ではない。それは、一つの文化遺産を継承するということへの参加表明じゃ。それは、美のバトンを、作り手から、そしてこれまでの所有者から、未来へと受け取るという厳粛な儀式なのじゃ。そして何よりも、作り手の魂と、静かに、そして深く対話するということなのじゃ。この香炉の前に、謙虚な心で立てば、そなたもきっと、わしが今感じているような、言葉では言い表せないほどの、静かで、しかし胸を打つ深い感動を覚えることであろう。
この香炉は、多くを語らぬ。その佇まいは、あくまでも静かで、奥ゆかしい。しかし、その沈黙の中には、万巻の書物をも凌ぐほどの、豊かで深い物語が秘められておる。その物語を読み解き、その美しさを味わい、そしてその価値を理解し、次の世代へと語り継いでいく。それこそが、このような至高の美術品を所有することの、真の喜びであり、また責任でもあるのではなかろうか。
関屋四郎。その名は、日本の彫金史、いや、日本の工芸史全体において、燦然と輝き続ける不滅の星。彼の作品は、決して数が多くはない。それは、彼が一つ一つの作品に、全身全霊を込めて取り組んだからに他ならない。そして、この純金天女香炉は、その中でも特に傑出した、彼の代表作の一つと言って、決して過言ではあるまい。これは、彼の「温故知新(おんこちしん)」の精神、つまり古い伝統を深く学び、そこから新しいものを創造するという、芸術家としての理想的な姿勢が結実したものなのじゃ。
「雲上人!人間国宝 日本人史上、最高の彫金スキルを持った人物 関屋四郎の命を削って製作した純金天女香炉 共箱おまけ付」…このオークションの最初の触れ込みは、いささか扇情的で、派手すぎるのではないかと、最初は眉をひそめたわしじゃった。しかし、こうしてじっくりと、この香炉と対峙し、その細部に至るまで吟味し、その背景にあるであろう作者の想いにまで心を馳せてみると、その言葉の一つ一つが、あながち的外れではないどころか、むしろこの香炉の本質を的確に捉えておると言わざるを得ぬ。
この香炉が持つ歴史的価値、美術的価値、そして文化的価値、さらには素材としての純金の価値。それらを総合的に考えたとき、その評価額は、おそらく天文学的な数字になるやもしれぬ。しかし、そのような俗な話は、今は脇に置いておこう。ただ純粋に、この目の前にある圧倒的な美の存在に、心を委ねてみるが良い。そうすれば、自ずと、この香炉が持つ真の価値、金銭では測ることのできない、精神的な価値が見えてくるはずじゃ。
さあ、決断の時じゃ。この天女は、そなたを待っておる。そなたが、この香炉に新たな命を吹き込み、その永い物語の、新たな一章を紡いでいくのを、静かに、しかし熱い期待を込めて待っておるのじゃ。これは、まさしく「一期一会(いちごいちえ)」。この香炉との出会いは、そなたの人生にとって、二度とない貴重な機会となるやもしれぬぞ。
わしからの言葉は、もうこれで十分であろう。これ以上語るのは、野暮というものじゃ。あとは、そなた自身の眼で、そなた自身の心で、この香炉と真摯に向き合い、その声に静かに耳を傾けてほしい。そして、もしそなたの魂が、この天女の舞に共鳴するならば、ためらうことはない。
健闘を祈る。そして、この香炉に、幸多かれと。

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