本作品は、アール・デコを代表するフランスの版画家ルイ・イカール(Louis Icart, 18881950)による1922年頃制作のオリジナル銅版画(エッチング、ドライポイント、アクアチント併用、手彩色)です。パリの版元「L'Estampe Moderne(レスタンプ・モデルヌ)、リシュリュー通り14番地」より正規出版されたもので、版内に版元名・住所が刻印されています。流れるような衣装を纏った若い女性が小犬を抱き、月夜の柳越しの水辺を背景とする詩情豊かな楕円形の構図で、イカールの最も人気の高い主題である「女性と犬」を描いた初期の逸品です。
作家の鉛筆直筆署名はプレートマーク(銅版の圧痕)を跨いで記されており、刷り上がり後に作家本人が紙面上に直接署名したことを物理的に証明しています。
作品は東京・銀座の老舗額縁製作所「株式会社古径(Kokey Picture Frames)」(明治27年創業)の高級額に収められ、「アール・グレイ株式会社」(東京都千代田区有楽町)発行の鑑定保証書(No. 106)が付帯しています。
| 作家名 | ルイ・イカール(Louis Icart, 18881950, フランス) |
| 作品名 | 月夜の女と犬(仮題) ※正式タイトル未確認。主題に基づく記述名。Holland, Catania & Isen カタログ・レゾネでの照合を推奨。 |
| 制作年 | 1922年頃(circa 1922) |
| 技法・支持体 | エッチング、ドライポイント、アクアチント併用、手彩色 ウーヴ紙(wove paper) |
| 版元 | L'Estampe Moderne(レスタンプ・モデルヌ) 所在地:14, rue de Richelieu, Paris ※版内上部に弧状に刻印。イカール初期(1920年代前半)の版元。 |
| 署名 | 右下余白に鉛筆署名「Louis Icart」 ※署名はプレートマーク(版の圧痕による紙面段差)を跨いで記されている。 刷り上がり後の作家直筆であることを物理的に証明する最重要の真正性根拠。 |
| 記番 | 左下に鉛筆で「10/H」 ※管理番号またはステート識別記号と推定。 |
| 画面寸法 | 楕円形 約43 × 33 cm(約17 × 13 in.) 【※要実測確認】 |
| 額装 | サイズ 約57 x 52 cm 杢目仕上げ木製額(バーラップ調深飴色) 金線入り楕円マット 真鍮プレート「LOUIS ICART / 18881950」 額製作:株式会社古径(Kokey Picture Frames) 東京・銀座、明治27年(1894年)創業 管理番号 27890-1235、検印(品質検査印)あり |
作品解説
流れるような衣装を纏った若い女性が小犬を優しく抱き、月光が水面に映える柳越しの夜景を背景に佇む、詩情豊かな楕円形のエッチングである。楕円形式はイカールの作品群において比較的珍しい構図であり、18世紀フランス装飾美術のカメオを想起させる親密な画面効果を生んでいる。イカールが深く敬愛したヴァトー、ブーシェ、フラゴナールら18世紀フランスの巨匠たちの伝統を、20世紀初頭のアール・デコの感性で再解釈した秀作といえる。
本作品はイカールの初期(19111924年)に属する。この時期はイカールがまだ比較的無名であり、版数(エディションサイズ)が後年の量産期に比べ著しく小さかったことが、Holland, Catania & Isenのカタログ・レゾネ(第5版)で明記されている。すなわち、1920年代後半以降の代表作群(‘Speed’、‘Coursing’ 等、各500部前後)とは希少性において明確に区別される。
版元の刻印「Publi par l'Estampe Moderne, 14, rue de Richelieu, Paris」は、銅版の中に直接刻まれて印刷されたものであり、後付けの手書きではない。L'Estampe Moderne社はイカールの初期版元として知られ、リシュリュー通り14番地に所在していた。その後イカールは「Les Graveurs Modernes(リヴォリ通り194番地)」、さらに「Les Artistes Modernes(スクリーブ通り5番地)」へと版元を移行しており、本作品の版元表記は1922年頃という制作年代と完全に整合する。
「女性と犬」の主題はイカール版画の中で最も人気の高いカテゴリーのひとつであり、国際オークション市場において一貫してプレミアム価格を形成してきた。月夜の幻想的な情景は、より一般的に見られる昼間のブドワール場面とは一線を画す詩的な魅力を本作品に付与している。
署名の分析
右下余白の鉛筆署名「Louis Icart」は、プレートマーク(キュヴェット、すなわち銅版のエッジが印刷時の圧力で紙面に刻んだ物理的段差)を跨いで記されている。これは本作品の真正性を裏付ける最も重要な物的証拠である。銅版画において、プレートマークは印刷工程で不可避的に生じるものであり、その段差を自然に跨ぐ署名は、刷り上がり後に作家本人が紙面上に直接鉛筆で署名したことを物理的に証明する。機械的に複製された署名ではこの段差との自然な相互作用は再現できない。
筆跡はイカールの既知の署名例と整合しており、「L」の装飾的なループ、「I」から「c」「a」「r」「t」への流麗な連続筆記は、1920年代前半のイカールの署名の特徴と一致する。
手彩色について
女性の髪部に施された赤銅色の彩色は、刷り上がり後に手作業で加えられた手彩色(hand-coloring)である。イカールの版画における手彩色は、とりわけ女性の髪に施されることが典型的な慣行であり、本作品もこの慣行に忠実である。約100年を経た手彩色としては褪色が少なく、良好な発色を保っている。
コンディション
制作後約100年を経た作品としては全体に良好な状態を保っている。マット上部に若干のフォクシング(褐色斑点)が認められるが、画面本体への重大な影響は見られない。手彩色の赤銅色の髪部は良好な発色を維持し、エッチングの線描も鮮明である。額装内の状態での観察に基づく報告であり、額から取り出しての精密検査は未実施。直接検分により追加のコンディション情報が得られる可能性がある。
来歴(プロヴナンス)
L'Estampe Moderne(レスタンプ・モデルヌ)、パリ(版元として出版)
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アール・グレイ株式会社(東京都千代田区有楽町2-8-6)にて販売
鑑定保証書 No. 106 発行(作品名、寸法、制作年、技法を記載)
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日本国内個人蔵(現所蔵者)
参考文献
William R. Holland, Clifford P. Catania, Nathan D. Isen 著『Louis Icart: The Complete Etchings』改訂増補第5版、Schiffer Publishing Ltd.【※カタログ・レゾネ番号は要照合】
付帯書類
1. アール・グレイ株式会社発行 鑑定保証書(Certificate of Authenticity)No. 106
記載内容:作品名、寸法、制作年(1922年)、技法(エッチング、手彩色)
2. 株式会社古径(Kokey Picture Frames)額裏ラベル
管理番号 27890-1235、検印(品質検査印)あり
本社 (03)745-3511 / 銀座店 (03)572-2240
額装に関する特記事項
本作品の額装は、東京・銀座の老舗額縁製作所「株式会社古径(Kokey Picture Frames)」によるものである。同社は明治27年(1894年)に「八咫屋(Yataya)」として銀座に創業し、その後「古径」として独立。日本画の巨匠・小林古径にちなむ社名のもと、一般的な額縁の約10倍の価格帯で知られる最高級額縁を、画家、文化人、美術館に供給してきた。銀座店は2018年(平成30年)7月に閉店したが、124年にわたる歴史を有する名門である。深い飴色の杢目仕上げの木製額、金線入りの楕円マット、真鍮のネームプレートは、いずれも同社の品質基準を反映した仕立てであり、作品の日本における来歴を物語る付加価値を有する。