以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜
無用の用、銀瓶一隻に宿る美の真髄
近頃の人間というものは、どうにも物の本当の値打ちが分かっておらん。金ピカのけばけばしい物を有り難がり、作家の名前にばかり目をくらまされ、肝心要の「用」と「美」が一体となった真の道具をまるで理解しようとしない。茶の湯がどうだ、美術がどうだ、と口先ばかりは達者だが、その実、日々の暮らしの中に美を見出し、それを使いこなすだけの甲斐性もなければ、審美眼もない。嘆かわしいことだ。
先日も、さる高名な茶人とかいう男の家に招かれたが、まあ、出てくる道具のひどいこと。有名な作家の銘が入った茶碗は、いざ手に取ってみれば重たくて飲みづらい。掛け軸ばかりが威張っているが、部屋全体の調和など微塵も考えられていない。極めつけは、湯を沸かすための鉄瓶だ。無駄に凝った装飾が施され、これ見よがしに鎮座しているが、注ぎ口から出る湯はだらしなくこぼれ、持ち手は熱くて素手では持てやしない。あれは道具ではない。ただの置物だ。俗物の自己満足に付き合わされるのは、まっぴらごめんだ。
そんな折、ふと立ち寄った古道具屋の薄暗い棚の奥に、ひっそりと息を潜めている一つの湯沸を見つけた。一見、なんの変哲もない、地味な銀の薬缶だ。しかし、その佇まいには、そこらの凡百の道具にはない、凛とした気品と静謐な力が満ち満ちていた。俺は吸い寄せられるようにそれを手に取った。
ずしり、と。しかし、それは決して不快な重さではない。四百二十一グラムの純銀が、我が手のひらに心地よい存在感を告げている。この重みは、素材の確かさと、職人の手が生み出した密度の証だ。胴は、ふっくらと丸みを帯びた南瓜形。完璧な球体ではない、その僅かな歪みと有機的な膨らみが、実に味わい深い。機械で打ち出したような、つるりとした能面のような銀瓶など、何の面白みもない。この湯沸の表面には、まるで細やかな絹布を思わせる、打ち出しの跡が静かに広がっている。光をぎらぎらと反射するのではなく、まるで内側から柔らかな光を放つかのように、鈍く、深く、そして優しく輝くのだ。これこそが、使い込まれ、愛されてきた銀だけが持つ、本物の肌艶というものだ。
蓋のつまみは、小さな菊の花だろうか。派手さはないが、指先にしっくりと馴染む。蓋と胴の合口は、寸分の狂いもなくぴたりと閉まる。持ち手は、無骨な鉄かと思いきや、銀の地金に丁寧な細工が施され、使い手が熱さを感じぬよう、藤が堅く巻かれている。この、どこまでも使い手のことを考え抜いた心配り。これこそが、日本の工芸の真骨頂ではないか。
そして、何よりも俺を感嘆させたのは、その湯口(注ぎ口)の姿だ。すっと伸び、僅かに鳥の嘴のように反りながら、最後にはきっぱりと断ち切られている。これは、湯を注いだ時の切れの良さを計算し尽くした形だ。実際に湯を注いでみれば、糸を引くように一筋の湯が流れ、ぴたりと止まる。一滴たりともこぼれることがない。この一瞬の機能美のために、職人がどれほどの時間と魂を注ぎ込んだことか。これを美と言わずして、何を美と呼ぶのか。
底を返せば、そこには「純銀」そして「端泉堂」という、控えめながらも確かな刻印があった。「端泉堂」という名は、俺も寡聞にして知らなかった。おそらく、歴史の表舞台で派手に名を売るような工房ではなかったのだろう。だが、それでいい。いや、それがいい。本物の仕事というものは、往々にして、声高に自らを語らないものだ。この湯沸そのものが、端泉堂という工房の、そして、これを作り上げた名もなき職人の、何より雄弁な証人なのだから。
この銀瓶が作られたのは、いつの時代か。明治か、大正か。おそらくは、まだ日本に「用の美」という思想が息づいていた時代であろう。西洋の文化が怒涛の如く押し寄せ、人々が浮ついた目新しさばかりを追い求める中で、この端泉堂の主人は、来る日も来る日も工房に篭り、ただひたすらに銀を打ち、槌音を響かせていたに違いない。彼の哲学は、奇をてらうことではなかった。華美に飾り立てることでもなかった。ただ、使いやすく、丈夫で、飽きのこない、暮らしに寄り添う道具を作ること。銀という素材の持つ本来の美しさを、最大限に引き出すこと。その一点に、彼の全霊は注がれていたはずだ。この銀瓶には、そんな頑固で、実直で、そして美に殉じた職人の生き様そのものが溶け込んでいる。
俺はこの湯沸を家に持ち帰り、早速、極上の玉露を淹れるために湯を沸かしてみた。備長炭を熾し、静かに火にかける。やがて、銀瓶の中で水が沸き立つ音が、ちりちりと、まるで虫の音のように聞こえ始める。鉄瓶の荒々しい音とは違う、どこまでもまろやかで、優しい音だ。立ち上る湯気もまた、柔らかい。
そして、その湯で淹れた茶の、美味いこと。驚いた。銀瓶で沸かした湯は、角が取れて驚くほどにまろやかになる、とは聞いていたが、これほどまでとは。茶葉の持つ甘みと旨みが、一切の雑味なく、舌の上で花開く。水が、違うのだ。この銀瓶は、ただの水を、茶の魂を呼び覚ますための「甘露」へと昇華させる力を持っている。
この道具は、選ぶ。使い手を、だ。
ただの骨董品として、ガラスケースの中に飾り立てて悦に入るような成金趣味の人間には、到底この銀瓶の本当の価値は分からないだろう。これは、生きて、使われるべき道具だ。日々、湯を沸かし、茶を淹れ、客をもてなす。その中で、持ち主の手の脂や、触れた時間の記憶が銀の肌に染み込み、唯一無二の、さらに深い味わいへと育っていくのだ。百年後、二百年後、この銀瓶は、今よりもっと美しい姿になっているに違いない。
今回、俺はこの湯沸を、とやらいう、現代の蚤の市に出すことにした。金に困っているわけではない。俺の食い扶持くらい、俺の器で稼いでみせる。そうではないのだ。この銀瓶には、もっと相応しい主がいるはずだ。俺のように、ただその美と機能に感嘆するだけでなく、これを日々の暮らしの伴侶とし、共に時間を重ね、その真価を未来へと伝えてくれるような、本物の数寄者が。
この画面の向こうにいる、あなた。もし、あなたが、ただの「物」ではなく、職人の魂と、美の哲学が宿った「道具」を求める人間であるならば。もし、あなたが、日々の暮らしの中にこそ、真の豊かさがあると知る人間であるならば。この端泉堂の銀瓶は、あなたを待っている。
これは、単なる銀の湯沸ではない。それは、日本の失われた美意識の結晶であり、使い手と共に新たな物語を紡いでいくための、白紙の頁なのだ。