想定外のことが重なりましたので、またもやコレクション品を手放さなければならなくなりました。
不運な機関車 C54。
本品は、試走程度、ナンバー未装備(パーツ付属)の良品です。
国鉄機関車の中で「54」という形式は、「54の呪い」なる不穏な言葉もあり、不遇・薄幸なものが多いとされます。
先ず、【ED54】
大正15年にスイスから輸入された電気機関車で、わずか2両のみの超小所帯。
「ブフリ式」という、吊り掛けでもカルダンでもない、極めて珍しい駆動方式を採用していたこと。
そのため運転は極めてスムーズだったらしいが、機器が精密を極め、当時の国鉄技術者の能力では、保守が大変だった。
廃車は終戦間もない昭和23年のことで、僅か22年の活躍と当時の機関車にしては短い。
【EF54】
初の国産大型機EF52の、昭和6年に落成・就役した最後の2両について、翌年に形式変更したもの。
これは歯数比を変えて高速性能を向上させたもので、後のEF53につながるものとなっている。
ただし2両だけの超小所帯だったため、使い勝手は良くなかったようで、戦時中の貨物需要の増大を機に、昭和19(1944)~20(1945)年にかけて、歯数比を変更して貨物用に変更、EF14と形式変更している。
そのため、EF54としては僅か13年で形式消滅してしまった。
電気機関車については、わずか2両のみという試作機のような存在でした・・・・。
【C54】本商品
C51の後継機となることを見込み、昭和6年より17両製造された。
線路規格の低い亜幹線でも運用が可能なように設計されたが、使い勝手が悪かったようである。
そのためか早々に増備が打ち切られ、その後の同じ用途の機関車の増備はC55、さらにC57に移行している。
少数形式であったためか退役も早く、保存機は1両もない。
晩年は主に山陰線で活躍。
【DD54】究極の出来損ない、でもカッコよい
一番の悲劇の「54」はこれ。
亜幹線の無煙化を推進するため、昭和41(1966)年に3両が試作機として登場、
その2年後の昭和43~46年にかけて量産機37両、合計40両が山陰地区に集中的に投入された。
DD51とは異なるヨーロピアンな箱型車体の外観、エンジン・変速機といった走り装置に、西ドイツのメーカーからのライセンス供与を受けて製作されたものを搭載した。
しかし、運用開始当初から、推進軸折損の故障が頻発。
次第に液体変速機や冷却ファンの故障など走り装置の不具合が顕著になっていった。
また根本的な問題として、走り装置そのものが精密に出来過ぎているため、メンテナンスに手間がかかり過ぎた。
以上より、昭和51年から淘汰が開始され、その2年後には全機退役した。
最も短い車両でたった8年という自家用車顔負けの活動期間だった。
話は脱線しましたが、C54は意外と模型化されています。
有名どころでは天賞堂の○○周年記念。
身近なところでは宮沢模型。
C54は新造時は、全国に散らばりC51と共通運用されましたが、軽量化による空転等の問題により、
昭和10年以降は、全車が福知山機関区に集中配置され、戦後まで山陰本線・福知山線・播但線で使用されました。
ただ、軽量化の影響による故障が出始め、昭和23年より状態不良で9両が廃車、昭和32年まで残った8両は再整備され、昭和38年まで運用されました。
最終的に北陸線金沢電化によるC57の余剰車に押される形で最後まで残った6両が一斉廃車され、保存機はありません。
ただ、引退近い昭和37年では運用の方も連続150キロ運転とロングラン運用をこなしており、一定のファンはいたようです。
本品は、宮沢模型の品と思います。
(メーカー刻印等がないため)
コレクター放出品で車両は良好です。