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D7300 邂逅、あるいは銀の沈黙 春夏秋冬 花 虫 香炉 銀900無垢 高さ約11cm×幅9cm 重さ563.30g
D7300 邂逅、あるいは銀の沈黙 春夏秋冬 花 虫 香炉 銀900無垢 高さ約11cm×幅9cm 重さ563.30g [浏览原始页面]
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以下、所謂ブラクラ妄想ショートショートです〜〜

やあ、どうも。北大路魯山人だ。まあ、座りたまえ。茶でも淹れてやろう。そこらの茶店で出すような、味も素っ気もない代物ではない。私が自ら土を捏ね、薪を焚べて焼き上げた茶碗に、選りすぐりの玉露を点ててやる。本当の「美」というものが、どういうものか。まずは、この一服の茶から感じてみるといい。
さて、君が今日ここに来たのは、そこに鎮座まします銀の香炉に用があるからだと聞いている。目利きを自称する連中が、近頃やけに嗅ぎ回っている品だ。とやらに出すそうだな。結構なことだ。だが、この香炉の本当の値打ちが、果たして君にわかるかな?金や銀の重さでしか物の価値を測れぬような俗物でないことを祈るばかりだ。
まあ、そんなに身構えるな。説教をしに来たわけではない。この香炉が、いかなる哲学と歴史の奇跡のもとに生まれ落ちたか。その物語を、少しばかり語って聞かせようというだけだ。退屈はさせんよ。なにせ、この魯山人が直々に語るのだからな。
第一章:邂逅、あるいは銀の沈黙
この香炉と私との出会いは、ある時雨の日の午後だった。長年、懇意にしている京都の旧家からの知らせでな。当主が亡くなり、蔵の整理を手伝ってほしいとのことだった。旧家というものは、得てして埃と時間の澱が溜まったガラクタの山だ。大半は、先祖の見栄と、骨董屋の口車に乗せられただけの、見るに堪えない代物ばかり。正直、気乗りはしなかった。
だが、その家の蔵には、何かがあった。言葉にするのは難しいが、一種の「気」のようなものだ。長年、本物だけを見続けてきた私の眼と、食を通して自然の真理を追い求めてきた私の舌が、そう告げていた。
蔵の奥、幾重にも重なった桐の箱の一番下に、それはひっそりと息を潜めていた。古びた紫の袱紗に包まれ、鈍い光を放つ銀の塊。手に取った瞬間、ずしりとした重みが、私の掌から魂の奥底へと響いた。563.30グラム。ただの銀の重さではない。幾人の職人の魂と、費やされた時間の重みだ。
高さは約11センチ、幅は9センチ。実に手頃な大きさだ。しかし、その小さな宇宙に込められた世界の広大さに、私はしばし言葉を失った。これはただの香炉ではない。日本の四季、いや、森羅万象の生命の詩を、銀というカンバスに刻み込んだ、一つの「小宇宙」なのだ。
まず、目に飛び込んでくるのは、その尋常ならざる彫金(ちょうきん)の密度だ。胴の中央から下にかけて、春夏秋冬、四季折々の草花が、まるで嵐のように咲き乱れている。春の桜、夏の朝顔、秋の菊に、冬の南天。それらが渾然一体となり、生命の歓喜を謳歌している。
だが、ありきたりの花鳥風月ではない。よく見ると、その草花の陰には、小さな命が息づいている。翅(はね)を休める蝶々、獲物を狙うカマキリ、秋の夜長を鳴き明かすコオロギ、そして、涼やかな風と共に現れる蜻蛉(とんぼ)。これらは単なる装飾ではない。それぞれが、この小宇宙における「時間」と「生命」の象徴なのだ。
蓋を見たまえ。ここにも草花が咲き誇り、煙を逃がすための透かし彫りが、まるで木漏れ日のように繊細な影を落としている。そして、その中央には、今まさに飛び立とうとする一匹の蝶。これは、この香炉から立ち上る香りが、俗世の憂さを忘れさせ、魂を天上へと解き放つ様を暗喩しているのだ。
胴の上部、そして蓋の一部に施された、この幾何学的な紋様。これは網代(あじろ)文様だな。竹や葦を編み込んだ、古来より伝わる意匠だ。これがまた、いい仕事をしている。下部の写実的な草花の描写と、上部の抽象的な網代文様。この対比が、作品全体に見事な緊張感とリズムを生み出している。自然の混沌と、人間の叡智による秩序。その二つが、この小さな香炉の中で、完璧な調和を保っているのだ。
そして、この足だ。猫足とも言うべきか、優美な曲線を描きながら、しかし、どっしりと大地を踏みしめている。この安定感。これがなければ、上部の華やかさは、ただの軽薄な装飾に堕してしまうだろう。
銀900。つまり、銀の含有率が90パーセントであることを示している。純銀(じゅんぎん)の輝きも良いが、少しばかり銅を混ぜることで、銀はより強く、そして、より深く、味わいのある表情を見せる。この作者は、そのことを知り尽くしていたのだろう。素材の特性を完璧に理解し、それを最大限に引き出す。これこそが、真の職人技というものだ。
さて、どうだね。少しは、この香炉がただの銀の塊ではないということが、わかってきたかね? だが、これはまだ、物語の序章に過ぎない。この恐るべき作品が、いかにして生まれ得たのか。その秘密を解き明かすには、我々は日本の美の歴史、そして、名もなき一人の職人の、孤独な魂の軌跡を辿らねばならんのだ。
第二章:時代の坩堝、明治という名の激流
この香炉が作られたのは、おそらく明治の中期から後期にかけてだろう。日本が、「日本」であることを捨て、「西洋」になろうともがいていた、狂乱の時代だ。
開国という名の激流は、それまでの日本の価値観を、根こそぎ洗い流そうとしていた。侍は刀を捨て、ちょんまげを落とした。公家や大名はパトロンとしての力を失い、彼らに庇護されてきた多くの職人たちが、路頭に迷った。狩野派の絵師も、蒔絵師も、そして、刀の鍔(つば)や小柄(こづか)に、神技のごとき彫金を施してきた金工師たちも、例外ではなかった。
彼らが何百年とかけて培ってきた伝統技術は、西洋から来た安価で派手な品々の前に、「古臭いもの」として打ち捨てられようとしていた。日本の美は、死んだのだ。少なくとも、多くの者はそう思った。
しかし、死んではいなかった。いや、むしろ、死の淵に立たされたからこそ、日本の美は、最後の、そして最も鮮烈な輝きを放ったのだ。
政府は、外貨獲得の手段として、「万国博覧会」に活路を見出した。西洋人どもが、東洋の神秘、ジャポニズムとやらに熱狂している。ならば、彼らの度肝を抜くような、超絶技巧の工芸品を作り、売りつけてやろう、と。
この政策が、吉と出たか、凶と出たか。それは、歴史家の判断に任せよう。だが、一つだけ確かなことがある。それは、この時代、日本の職人たちが、まさに鬼神のごとき情熱と技術で、空前絶後の作品群を生み出したということだ。
薩摩焼の錦襴手(きんらんで)、七宝焼の無線七宝、そして、芝山象嵌(しばやまぞうがん)。いずれも、人間の手で作り得るとは信じがたいほどの、緻密さと豪華絢爛さを誇る。これらは、西洋への輸出を目的に作られた、いわば「輸出工芸」だ。
この銀の香炉も、その大きな時代のうねりの中で生まれたものに違いない。だが、他の多くの輸出工芸品とは、一線を画している。何かが、決定的に違うのだ。
多くの輸出工芸品には、どこか「媚び」がある。西洋人が好みそうな、派手な龍や鳳凰、芸者や富士山といった、わかりやすい「日本趣味」を、これでもかとばかりに詰め込んでいる。技術は確かに凄まじい。しかし、そこには、作り手の魂の静けさ、自然と対峙する者の、謙虚で、しかし、凛とした精神が感じられない。ただただ、技術のひけらかしに終始している。そんなものは、本当の美ではない。ただの「見世物」だ。
だが、この香炉は違う。ここにあるのは、日本の自然そのものだ。ありふれた草花、小さな虫たち。しかし、その一つ一つの命に、作者は深い愛情と畏敬の念を注いでいる。これは、西洋人のための「お土産」ではない。作者が、自らの魂と対話し、日本の美の神髄とは何かを問い続けた、その孤独な格闘の記録なのだ。
この香炉の作者は、おそらく刀装具を作っていた金工師の一族の出だろう。そうでなければ、この金属という、硬く、冷たい素材に、これほどまでの生命の息吹と、柔らかな質感を与えることはできまい。
刀装具の世界は、数ミリ四方の空間に、宇宙を表現する、極小の美の戦場だ。そこで鍛え上げられた鏨(たがね)の冴え、寸分の狂いも許さない集中力。それらが、この香炉の隅々にまで、脈々と受け継がれている。
例えば、この菊の花びら一枚一枚の、繊細な表情を見てみろ。カマキリの、獲物を狙う瞬間の、恐ろしいほどの緊張感。蜻蛉の、陽光を受けて煌めく、薄い翅の質感。これらは、単に形を写し取っただけではない。作者は、それぞれの生命の本質を、その魂の奥底まで見つめ、それを銀という物質に「転写」したのだ。
この技法は、おそらく「高肉彫(たかにくぼり)」と呼ばれるものだろう。銀の板を、裏から、そして表から、何度も何度も、気の遠くなるような回数、金槌と鏨で打ち出す。叩いては、火でなまし、また叩く。その繰り返しの中で、銀は徐々に、作者が意図する形へと、その姿を変えていく。
それは、もはや「作る」という行為ではない。銀という素材と「対話」する、神聖な儀式だ。銀の声を聞き、その内なる生命力を引き出す。作者は、そのための介添人に過ぎない。
この香炉を作った男は、時代の激流に翻弄されながらも、決して己の美意識を曲げなかった。西洋に媚びることもなく、ただひたすらに、己が信じる日本の美を追求し続けた。彼は、侍が刀を捨てた時代に、鏨を刀に持ち替えた、最後の「武士」だったのかもしれない。
この香炉から立ち上るのは、伽羅(きゃら)や沈香(じんこう)の香りだけではない。時代の波に抗い、己の道を貫いた、一人の名もなき職人の、孤高の魂の香りなのだ。
第三章:意匠の森、あるいは生命の交響曲
さて、もう少し、この香炉の意匠の細部に分け入ってみよう。美は細部に宿る、という。この言葉ほど、この香炉にふさわしいものはない。
作者は、なぜ「春夏秋冬」を、この小さな器に閉じ込めようとしたのか。
日本人にとって、四季の移ろいは、単なる気候の変化ではない。それは、我々の精神の、最も深い部分にまで根差した、美意識の根幹なのだ。
春には、桜の儚い美しさに、もののあはれを感じる。夏には、青々と茂る草木の生命力に、魂を鼓舞される。秋には、紅葉の燃えるような色彩と、虫の音に、去りゆくものへの哀愁を覚える。そして、冬には、雪に閉ざされた静寂の中に、新たな生命の萌芽を待つ、強い意志を見出す。
我々は、この四季の循環の中に、人生そのものの縮図を見る。出会いと別れ、生と死。それらは全て、大いなる自然の摂理の一部なのだと、我々は知っている。
この香炉は、その日本人の自然観、生命観を、見事に体現している。
春の象徴である桜と蝶。蝶は、その幼虫から蛹(さなぎ)へ、そして、成虫へと姿を変えることから、古来、復活や再生、魂の不滅の象徴とされてきた。また、その優美な姿は、しばしば女性の美しさにもなぞらえられる。
夏の草花と共に描かれるのは、カマキリと蜻蛉だ。カマキリは、その獰猛な姿から、武勇の象徴とされる。鎌を振り上げた姿は、まさに敵に立ち向かう武士のようだ。一方、蜻蛉は、「勝ち虫」とも呼ばれ、前にしか進まず、退かないその性質から、同じく武士に好まれた。しかし、その涼しげな姿は、夏の暑さの中の一服の清涼剤でもある。
そして、秋。菊の花と、鳴きしきるコオロギ。菊は、皇室の紋章にも使われる、高貴な花だ。また、その気高い香りは、邪気を払うと信じられてきた。一方、コオロギの鳴き声は、秋の夜の静けさと、ものの寂しさを、我々の心に深く染み渡らせる。古来、日本の文学や詩歌において、虫の音は、秋の情感を表現する上で、欠かせない要素だった。
冬の情景は、ここでは明確には描かれていない。しかし、それは、作者の意図的な省略なのだ。なぜなら、この香炉は、生命の謳歌を描いているからだ。だが、よく見ると、枯れかけた葉や、実を落とした後の枝が、そこここに描かれている。それは、来るべき冬の厳しさと、その中で静かに春を待つ、生命のたくましさを示唆している。
そして、これらの花々や虫たちが、決して独立して描かれているのではないことに、注意してほしい。それらは互いに絡み合い、影響し合い、一つの大きな生命の環(わ)を形成している。蝶は花の蜜を吸い、カマキリは蝶を狙う。コオロギの鳴き声が響く傍らで、蜻蛉が静かに翅を休めている。
これは、仏教で言うところの「縁起(えんぎ)」の世界だ。万物は、互いに関係し合い、支え合って存在している。一つとして、単独で存在し得るものはない。この香炉の作者は、その深遠な真理を、鏨の一打ち一打ちに込めたのだ。
さらに言えば、この香炉のデザインは、私の提唱する「用の美」の哲学とも、深く共鳴する。
私は常々言っている。「食器は料理の着物だ」と。器は、それ自体が主張しすぎてはならない。あくまでも、主役である料理を引き立て、その味わいを最大限に高めるための「背景」でなければならない。
この香炉もまた、そうだ。主役は、もちろん、この中から立ち上る「香り」だ。この見事な彫金は、その香りを、より深く、より豊かに味わうための、最高の「舞台装置」なのだ。
目を閉じ、この香炉に焚かれた香木の香りに、静かに耳を澄ませてみたまえ。すると、どうだ。銀に刻まれた草花が、香りと共に、君の心の中で、生き生きと香り始めるではないか。蝶が舞い、蜻蛉が飛び、コオロギが鳴く。君は、いつしか、都会の喧騒を離れ、日本の美しい自然の真っただ中に、一人、佇んでいることだろう。
これこそが、この香炉のデザイン哲学の神髄だ。視覚と嗅覚、そして、我々の記憶や想像力。それら全てを動員して、一つの総合的な「美の体験」を創り出す。こんな芸当ができる工芸品が、今の日本に、いや、世界のどこに、一体どれだけあるというのか。
第四章:作り手の肖像、あるいは無名の魂との対話
さて、この香炉を作ったのは、一体、いかなる人物だったのか。
箱にも、本体にも、作者の名を示す銘はない。おそらく、彼は、自分の名前を作品に残すことなど、考えもしなかったのだろう。彼にとって、作品とは、己の名声を高めるための道具ではなかった。それは、神に捧げる祈りであり、自らの魂を浄化するための、修行そのものだったのだ。
しかし、作品は、作り手の魂を、雄弁に物語る。この香炉と、静かに、深く対峙していると、一人の男の姿が、おぼろげながら、私の心に浮かび上がってくる。
彼は、江戸の末期、代々、刀の鍔や目貫(めぬき)を作る、金工師の家に生まれた。幼い頃から、父の仕事場で、金槌の音を子守唄代わりに育った。遊び道具は、鉄や銅の切れ端と、使い古した鏨。物心つく頃には、自然と、金属を打つ技術を身につけていた。
彼の家は、決して裕福ではなかった。しかし、そこには、何物にも代えがたい「誇り」があった。自分たちの仕事が、武士の魂である刀を飾り、その威厳を高めているという誇り。そして、何よりも、日本の美の伝統を、自らの手で受け継いでいるという、静かな自負があった。
しかし、明治という、黒船がもたらした巨大な波は、彼のささやかな世界を、容赦なく打ち砕いた。廃刀令。その一言で、彼の家は、代々の生業を失った。父は、酒に溺れ、やがて、失意のうちにこの世を去った。
彼は、一人になった。手元に残されたのは、父が遺した、一揃いの道具だけ。彼は、その冷たい鉄の塊を握りしめ、泣いた。時代の変化を呪い、己の無力さを嘆いた。
しかし、彼は、絶望の淵から、ゆっくりと立ち上がった。父が、そして、そのまた父が、何百年とかけて守り続けてきた、この「技」を、自分の代で絶やすわけにはいかない。彼は、そう、心に誓った。
彼は、横浜や神戸といった、異人の集まる港町へと向かった。そこで彼は、日本の伝統工芸が、驚くほど高い値段で、西洋人たちに買われていくのを目の当たりにする。彼らは、日本の職人が、魂を込めて作ったものを、ただの珍しい「お土産」として、物欲しげな目で眺めている。
彼は、屈辱に震えた。だが同時に、一つの活路を見出した。そうだ、自分も、この技で、何かを作ろう。だが、決して、異人に媚びへつらうような、安っぽいものは作らない。自分が、本当に「美しい」と信じるもの。日本の魂そのもののような作品を、この手で生み出してみせる。
彼は、故郷に戻り、小さな工房を構えた。そして、来る日も、来る日も、ひたすらに銀を打ち続けた。彼の頭の中にあったのは、幼い頃、父に連れられて歩いた、故郷の野山の風景だった。
春には、山一面を薄紅色に染める桜。夏には、朝露に濡れて輝く、蜘蛛の巣。秋には、夕日に照らされて、黄金色に輝く、稲穂の波。冬には、しんしんと降り積もる雪の下で、じっと春を待つ、草木の芽。
彼は、それらの光景を、決して忘れることはなかった。いや、むしろ、時代の嵐が激しくなればなるほど、その記憶は、彼の心の中で、より一層、鮮やかに輝きを増した。
彼は、金儲けのために、この香炉を作ったのではない。生活のためには、もっと安直な、異人受けのする品を作ったかもしれない。だが、この一品だけは、違った。これは、彼の魂の、最後の砦だった。失われゆく日本の美への、痛切な挽歌であり、同時に、それでもなお、日本の美は不滅であるという、高らかな宣言でもあった。
彼は、来る日も、来る日も、鏨を振るった。一つの花びらを彫るのに、丸一日を費やすこともあった。一つの虫の脚を表現するために、何度も、何度も、作り直した。
その制作の過程は、想像を絶するほどの、孤独な戦いだったに違いない。誰も、彼の仕事の価値を、理解してはくれなかっただろう。近所の者たちは、彼を変わり者だと噂し、遠巻きに見ていたかもしれない。「あんなもので、飯が食えるものか」と、嘲笑う者もいたかもしれない。
だが、彼は、耳を貸さなかった。彼は、ただ、自分の内なる声に、そして、銀の声に、耳を澄ませていた。
そして、幾年かの歳月が流れた後、この香炉は、ついに完成した。
彼は、完成した香炉を、静かに、工房の床の間に置いた。そして、震える手で、一片の香木を、その中にくべた。
立ち上る、かぐわしい煙。その煙の向こうに、彼は、今は亡き父の、優しい笑顔を見たような気がした。
「よくやったな」
父の声が、聞こえた。彼は、とめどなく流れる涙を、拭おうともしなかった。
これが、私が、この香炉から読み取った、一人の名もなき職人の物語だ。もちろん、私の想像に過ぎない。だが、本物というものは、常に、我々に、このような豊かな物語を、語りかけてくれるものなのだ。
君が、これから、この香炉をとやらで売るというのなら、どうか、この物語も、一緒に伝えてやってほしい。この香炉の価値は、563.30グラムの銀の値段ではない。時代の波に翻弄されながらも、己の信じる美を、命を懸けて貫き通した、一人の日本人の、魂の重さなのだと。
第五章:魯山人の眼、あるいは美の真贋
さて、長々と語ってしまったな。茶が冷めてしまった。もう一杯、淹れてやろう。
私が、なぜ、これほどまでに、この香炉に惹かれるのか。それは、この香炉が、私の追い求める「美」の理想を、完璧に体現しているからに他ならない。
世の中には、「美しい」とされるものが、掃いて捨てるほどある。だが、そのほとんどは、偽物だ。見せかけの美、上っ面だけの美、権威に寄りかかった美。そんなものに、私は、何の価値も見出さない。
私が「美」と呼ぶのは、常に「真」と共にあるものだ。
素材の「真」。この香炉は、銀900という、正直な素材で作られている。見栄を張って、純銀だなどと偽ってはいない。銀と銅が、最も美しく響き合う、その一点を、作者は熟知している。
技術の「真」。ここには、奇をてらったような、これ見よがしの技巧はない。ただ、ひたすらに、誠実に、素材と向き合い、何百年と受け継がれてきた伝統的な技法を、極限まで高めている。その一つ一つの鏨の跡に、作者の、嘘偽りのない、まっすぐな心が、現れている。
そして、心の「真」。作者は、金や名声のために、これを作ったのではない。ただ、美しいものを作りたいという、純粋な衝動。失われゆく日本の自然への、深い愛情。その、混じりけのない心が、この香炉に、永遠の生命を与えている。
今の世の中は、どうだ。すべてが、薄っぺらな、偽物ばかりになってしまったではないか。
料理人は、食材の声を聞くこともせず、ただ、流行りの調理法を真似るだけ。器作家は、土と炎と対話することもせず、ただ、奇抜な形で、人の目を引こうとするだけ。そして、客もまた、自分の舌で味わうことをせず、ただ、有名な店だというだけで、有り難がって、まずいものを食っている。
美が、地に堕ちたのだ。
だからこそ、我々は、この香炉のような「本物」を、今一度、見つめ直さねばならん。この香炉は、我々に、静かに、しかし、厳しく、問いかけているのだ。「お前の眼は、節穴ではないか?」と。
この香炉を、に出すのはいいだろう。だが、くれぐれも、安く売り渡すような真似だけは、してくれるなよ。この香炉の価値がわかる、本物の「眼」を持った人間の手に渡らなければ、この香炉を作った、名もなき職人の魂が、浮かばれん。
値段は、君が決めればいい。だが、もし、私が値をつけるとしたら、そうだなぁ…家一軒分くらいは、もらわなければ、割に合わんな。
なに、驚くことはない。美というものは、本来、それくらいの価値があるものなのだ。腹が減っては戦はできぬ、と言うが、腹が満ちても、美しいものがなければ、人の心は、たちまち、荒んで、獣と同じになってしまうのだからな。
さあ、話は、もう終わりだ。この香炉を、よく見て、心に刻みつけておけ。そして、君が、これから、この品をどう扱うか。君自身の「美」に対する、見識が、今、問われているのだ。
せいぜい、恥ずかしくない、選択をすることだな。…では、達者でな。
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