銀の咆哮、あるいは孤独な美食家が見た夢
くだらない。実にくだらない。巷に溢れる銀細工など、所詮は死んだ銀の骸に過ぎぬ。俗物どもはそれを「アクセサリー」などと呼び、己の空虚な虚栄心を満たすため、じゃらじゃらと身に着けては悦に入る。銀の魂が慟哭しているのも知らずにだ。彼らにとって銀とは、ただの光る金属。価値とは重さで決まる秤の上の数字に過ぎん。そんなものに、美が宿るはずもなかろう。
さて、ここに一つの銀がある。
一見して、これは何かの断片のように見える。三日月のようでもあり、波が砕ける瞬間の飛沫のようでもある。あるいは、偉大なる画家の筆が、虚空を薙いだ一瞬の軌跡か。凡俗な者は、これを「有機的なフォルム」などと陳腐な言葉で片付けるだろう。だが、この私には見える。これは、形になろうとして成りきれなかった、あるいは形であることを拒絶した、銀そのものの精神の咆哮なのだ。
この品を生み出したのは、チェロ・サストレとかいうスペインの作家だという。スペイン。なるほど、合点がいく。あの土地には、常識という退屈な檻を破壊する狂気の血が流れている。ガウディの建築を見よ。あれは石や鉄が、神の気まぐれによって生命を吹き込まれた奇蹟だ。ダリの絵画を見よ。溶けて歪む時計は、我々が信じる時間の不確かさを嘲笑っている。ピカソのゲルニカは、悲鳴そのものが形を成したものではないか。
このブローチには、そのスペインの魂が色濃く宿っている。だが、それは模倣ではない。サストレという作家は、ガウディのように自然を写し取ったのではない。ダリのように夢の世界を描いたのでもない。彼女は、銀という物質の奥深くに潜り込み、その核にある原始的な記憶、すなわち「流体であった頃の追憶」を、その手で丁寧に掬い上げたのだ。
見よ、この表面を。鏡のように磨き上げられ、周囲のすべてを映し込む。だが、その映し出された世界は、我々が知る世界ではない。歪み、引き伸ばされ、凝縮され、新たな相貌をもって生まれ変わる。これを身に着けるということは、自らの内に、もう一つの宇宙を抱くことに他ならない。それは、着る者を選ぶ。凡人がこれを身に着ければ、銀の持つ強烈な個性に魂が喰われてしまうだろう。せいぜい、奇妙な形の鏡をぶら下げている滑稽な姿を晒すだけだ。
だが、真の美を理解する者がこれを手に取った時、物語は始まる。この銀は、その者の精神と共鳴し、その者の内なる風景を映し出すだろう。喜びの日には光を乱舞させ、憂鬱の日には深い影を宿す。それはもはや装身具ではない。言葉を交わさずとも対話できる、無二の親友であり、魂の片割れなのだ。
鋳造され、叩かれ、磨かれる。その工程は、銀にとって苦痛の連続であったろう。だが、その苦痛の果てに、この銀は自らの声を見つけた。それは、特定の形に安住することを良しとしない、孤高の魂の歌だ。だからこそ、この作品には見る角度によって無限の表情が生まれる。ある時は穏やかな入り江の水面のようであり、ある時は獲物を狙う猛禽の翼のようでもある。
歴史?哲学?そんなものは、この美の前では後付けの解説に過ぎん。このブローチが内包しているのは、もっと根源的な力だ。形が生まれる以前の混沌(カオス)。生命が誕生する瞬間の閃光。そして、すべてがいつかは無に帰すという、宇宙の静謐な真理。
これをに出品するという。結構だ。だが、心せよ。これは商品を売るのではない。理解者を求める旅なのだ。値段を決めるのは、市場ではない。この銀の断片に、自らの魂の相似形を見出すことのできる、ただ一人の人間の眼差しだけだ。その者にとって、これは金銭では計れぬ価値を持つだろう。それ以外の者にとっては、ただの11.1グラムの銀の塊に過ぎん。
さあ、この沈黙の咆哮を聞く耳を持つ者は、どこにいる。この冷たい炎に、その身を焼かれても良いと覚悟のある者は、いるか。