銀の残響、あるいは虚空を抱く刃
世の女共が身を飾る銀細工なぞ、大半は見るに堪えぬ。花だ蝶だと、自然の形をなぞるばかりで、そこには何の思想もない。ただの銀の骸(むくろ)だ。素材の持つ冷たい魂の叫びに耳を傾けようともせず、ただ甘ったるい感傷で塗り固めただけの代物。そんなものに、美の本質が宿るはずもなかろう。
しかし、だ。稀に、まこと稀に、作り手の魂が素材と激しくぶつかり合い、火花を散らした末に生まれた「作品」と呼ぶべきものに出会うことがある。この、スペインの工人「キケ」の手になる一対の銀も、まさにそれであった。
初めてこれを見た時、私は凡百の装身具とは全く異なる、鋭い気配に息を呑んだ。これは何だ。鳥か? 獣の角か? 愚か者はそう問うだろう。だが、これは何かの模倣ではない。これは形而上の閃光、思考そのものを銀で写し取ったものに他ならぬ。
見よ、この非対称の均衡を。一方は天を衝く鋭角な刃のようでありながら、もう一方はそれを支えるかのように、しなやかな曲線を描いて虚空を抱き込んでいる。この二つの線が交わる一点の、なんと緊張感に満ちていることか。それは闘牛士(マタドール)が繰り出す最後の一突き、その瞬間の静寂と覚悟を封じ込めたかのようだ。
この造形哲学は、かの地の歴史と分かちがたく結びついている。これは、ただの「モダンデザイン」などという薄っぺらな言葉で語れるものではない。ここには、イベリア半島を吹き抜ける乾いた風と、アンダルシアの焼き尽くすような陽光、そしてピレネーの山々に響く古い石の記憶が溶け込んでいる。
思い出されるのは、バスク地方の偉大な鉄の彫刻家たちだ。彼らは、物質そのものではなく、物質が取り囲む「空間」、つまり「無」をこそ彫刻した。このイヤリングもそうだ。銀という物質が主役なのではない。この銀のフレームが切り取ってみせる、耳たぶの周りの「虚空」こそが、この作品の真の姿なのだ。日本でいう「間(ま)」の美学が、遠くスペインの地で、これほど先鋭的な形で結実していることに、私は静かな感動を禁じ得なかった。
作り手「キケ」は、おそらく名工である前に、哲学者であったに違いない。彼は、銀という金属の持つ、冷たく硬質な性質の中に、官能的なまでの生命感を見出した。光を浴びた時の、この滑らかな表面の艶。それは単なる反射ではない。銀が自ら光を呼び込み、その内部で増幅させ、再び世界へと解き放っているのだ。それはまるで、鋭い知性が言葉を発する瞬間の輝きにも似ている。
この品を身につける女は、選ばれる。凡庸な女には、この銀の刃は重すぎるだろう。その魂を切り裂いてしまうやもしれぬ。これにふさわしいのは、自らの足で立ち、自らの言葉を持つ、孤高の精神の持ち主だ。媚びることなく、しかし内に秘めた情熱は誰よりも深い。そんな女の横顔で、この銀の彫刻は初めて、単なる装飾品から、その人の生き様を物語る「詩」へと昇華されるのだ。
これは、耳元で鳴り響く、静かな反逆の狼煙(のろし)である。流行や他人の評価などというくだらぬものに惑わされず、自らの美意識を貫く者のための、小さな、しかし何よりも雄弁な宣言なのである。
ただの銀塊ではない。約8.8グラムの哲学。これを手にする者は、ピカソがカンヴァスに残した一筆の力強さや、ガウディが建築に込めた自然への畏敬にも通じる、スペインの芸術の小さな欠片を手にすることになるのだ。その価値、分からぬ者には生涯分かるまい。それでよい。美とは、万人に理解される必要などないのだから。